■「灰色の煙が空を覆わなかった日はない」
銅の生産高が4000トンに達した2年後、それまで2カ所に分かれていた精錬所が、現在の足尾ダムの1kmほど下流の本山に統合(=足尾精錬所)されるのだが、それは結果として、松木村に決定的な被害を与えることとなった。
銅鉱石を精錬する過程ででる硫酸銅溶液は排水として渡良瀬川に流された。
「それが下流域で鉱毒事件を引き起こしたわけですね」
そう。そのいっぽう、高さ30mほどの煙突からは鉱石精錬の際に発生する硫黄酸化物を含んだ大量の有毒ガスが排出されていた。それが植物にどんな影響を与えるのかといえば、たとえば亜硫酸ガス(=二酸化硫黄)の場合には主に葉肉部に被害をおよぼし、症状としては葉脈間不定形斑点が生じ、あるいは育成抑制や早期落葉が起こる。つまり植物が育たない。
少なくとも松木村にとって、これは机上の理屈では済まなかった。
村の記録によれば、煙害による実施的な被害は1885年(明治18年)頃から養蚕に現れている。そして、被害に拍車をかけたのが1887年に起こった松木大山火事だった。おりからの強風で、火災は松木、仁田元、久蔵など3本の沢沿いの山々や集落ばかりか、現在のわたらせ渓谷鉄道の終着駅、間藤あたりまで広範囲に及び山林や家屋を消失させてしまったのだ。
本来であれば、消失した山地は数年もあれば回復する。それが自然の営みなのだが、しかし足尾の山々ではまるで様子が違っていた。産銅量の増大に伴い煙害はますますひどくなるいっぽうで、幼木は育成を妨げられ、山の回復など望みようもない事態にまで至っていたのである。
「灰色の煙が空を覆わなかった日はない」
松木村の記録はこう書き、精錬所から吐きだされる煙がいかに大量だったかを推測させている。
煙害によって松木村が消滅するまでの事情を、足尾の郷土誌は次のように記している。
「明治21年には桑の木が全滅し、翌22年には養蚕をやめた。約20町歩の農作物(大麦、小麦、大豆、小豆、ヒエ、キビ、大根、人参)は33年までに次々と無収穫となり、馬も毒草を食べたために死亡した。また、明治25年まで個数40、人口270名だったものが、33年に個数30、人口174名に減り、明治34年には1戸を残して全員松木村を去り、その後、数年を経て、松木はまったくの無人となり村が消えた」(つづく)
(文=矢貫隆/2005年11月)