第43回:『トリノの風薫る』プリンス・スカイラインスポーツ(1962-63)(その2)

2006.09.13 エッセイ

第43回:『トリノの風薫る』プリンス・スカイラインスポーツ(1962-63)(その2)

『CARグラフィック』創刊号(1962年4月号)の巻頭に掲載された「ジョバンニ・ミケロッティ」からのメッセージ。ミケロッティは21年生まれ、37年に16歳でスタビリメンティ・ファリーナ(ピニンファリーナの長兄ジョバンニの工場)に入社、デザインとコーチワークを学んだ。49年に独立、同社のほかにギア、ヴィニャーレ、アレマーノなどにもデザインを供給したのち、60年に自らの名を冠したスタジオを設立、多くの作品を残した。このメッセージからもわかるように親日家でもあった。80年没。
『CARグラフィック』創刊号(1962年4月号)の巻頭に掲載された「ジョバンニ・ミケロッティ」からのメッセージ。ミケロッティは21年生まれ、37年に16歳でスタビリメンティ・ファリーナ(ピニンファリーナの長兄ジョバンニの工場)に入社、デザインとコーチワークを学んだ。49年に独立、同社のほかにギア、ヴィニャーレ、アレマーノなどにもデザインを供給したのち、60年に自らの名を冠したスタジオを設立、多くの作品を残した。このメッセージからもわかるように親日家でもあった。80年没。
『CARグラフィック』1964年8月号に掲載されたプリンスのデザイナー、井上猛氏によるイタリア留学記。井上氏は59年11月から61年7月までイタリアに学び、とくに60年8月から帰国までの約1年間はフランコ・スカリオーネのスタジオでデザイン・スタディに打ち込んだという。スカリオーネは、アルファ・ロメオ1900をベースとしたBATシリーズや、同じくアルファのジュリエッタ・スプリントや同 SSのスタイリストとして知られる空力の第一人者である。
『CARグラフィック』1964年8月号に掲載されたプリンスのデザイナー、井上猛氏によるイタリア留学記。井上氏は59年11月から61年7月までイタリアに学び、とくに60年8月から帰国までの約1年間はフランコ・スカリオーネのスタジオでデザイン・スタディに打ち込んだという。スカリオーネは、アルファ・ロメオ1900をベースとしたBATシリーズや、同じくアルファのジュリエッタ・スプリントや同 SSのスタイリストとして知られる空力の第一人者である。
『CARグラフィック』1963年12月号の表紙を飾った、スカリオーネと井上猛氏のコラボレーションによる「スカイライン1900スプリント」。スカイラインスポーツと同じグロリア用シャシーに流線型のボディを載せたもので、同年の第10回全日本自動車ショー(TOKYO MOTOR SHOW)に参考出品された。
『CARグラフィック』1963年12月号の表紙を飾った、スカリオーネと井上猛氏のコラボレーションによる「スカイライン1900スプリント」。スカイラインスポーツと同じグロリア用シャシーに流線型のボディを載せたもので、同年の第10回全日本自動車ショー(TOKYO MOTOR SHOW)に参考出品された。

■デザインはミケロッティ

「スカイラインスポーツ」のプロジェクトは、1955年に欧米の自動車および航空機産業を視察旅行した、当時プリンスの取締役設計部長だった中川良一氏が、イタリアのカロッツェリアとそこでつくられるスポーツカーの美しさに感銘を受けたことに端を発したと言われている。

最初の項で述べたように、先進的なメーカーであったプリンスは、いち早くデザイン/スタイリングの重要性にも目を向けていたが、その旅でカーデザインの本場はイタリアであることを確信したようで、59年に当時デザイン課長だった井上猛氏をイタリアに派遣、約2年にわたって氏をイタリアで学ばせていた。そして、いつかわが社でもすばらしいイタリアンデザインのスポーツカーを、という中川氏の夢も、井上氏の渡伊を機に具体化することになる。

プリンスでは、スカイラインスポーツ開発の狙いとして三つの理由を掲げていた。一つ目はこれから先、純粋にドライブを楽しめるクルマの需要が予測されたこと。二つ目は向上しつつある国産車デザインのさらなる飛躍のための刺激剤となること。そして三つ目は、対米輸出戦略の切り札となることだった。それらを実現するために、イタリアのカロッツェリアにデザインを発注することを決定したのだった。その命を受けた井上氏は、スタディのかたわらプロジェクトにふさわしい人材を調査した結果、トリノ在住の「ジョバンニ・ミケロッティ」に白羽の矢を立てた。
TR4、スピットファイア、ヘラルドや2000などのトライアンフ各車、BMW700、同1500、そして日野コンテッサ1300などを手がけたスタイリストとして知られるミケロッティは当時39歳。すでに20年以上のキャリアを持ち、脂の乗りきった時期だった。

一説によると、プリンスでは当初「ピニンファリーナ」に打診したそうだが、デザイン料が桁違いに高かったためにあきらめ、ミケロッティに依頼したともいわれているが、真偽のほどは不明である。
ちなみにデザイン・コンサルタントを行うのは一国一社に限っていたピニンファリーナは、それから数年後に日産と契約、2代目ブルーバードとセドリックを手がけた。

スカイラインスポーツ・コンバーチブル。60年の第42回トリノショーに出品されたアレマーノ製のプロトタイプで、イタリアで撮影されたカットであろう。
スカイラインスポーツ・コンバーチブル。60年の第42回トリノショーに出品されたアレマーノ製のプロトタイプで、イタリアで撮影されたカットであろう。
同じくアレマーノ製のクーペ。この個体は、現在も日産の座間事業所(旧座間工場)にある通称「記念庫」に保存されている。
同じくアレマーノ製のクーペ。この個体は、現在も日産の座間事業所(旧座間工場)にある通称「記念庫」に保存されている。
アレマーノ製コンバーチブルのインテリア。インパネは生産型とは異なり、メーターは速度計と燃料/水温などの集合計のみ。ステアリングホイールはトリノショー出展時にはナルディ製ウッドリムの3本スポークが装着されたが、この撮影時点ではグロリア用がそのまま残されている。
アレマーノ製コンバーチブルのインテリア。インパネは生産型とは異なり、メーターは速度計と燃料/水温などの集合計のみ。ステアリングホイールはトリノショー出展時にはナルディ製ウッドリムの3本スポークが装着されたが、この撮影時点ではグロリア用がそのまま残されている。

■製作期間半年足らず

60 年5月、プリンスは「ミケロッティ」とデザインの、そして「アレマーノ」と2台のプロトタイプ製作の契約を締結する。ミケロッティは純粋なデザインスタジオだったため、ミケロッティと旧知の関係にあり、主にコーチワークを行っていたカロッツェリアであるアレマーノが製作を担当したのである。

そして今日ではありえないことだが、プリンスでは両社に支払う金額を公表していた。その「公称値」によれば、ミケロッティへのデザイン料が500万リラ(邦貨約290万円)、アレマーノへの製作費が1台あたり800万リラ(同約464万円)の合計2100万リラ(同約1218万円)とのこと。またデザイン料は買い取りのため、生産台数ごとのロイヤリティは発生しない、ということまで公にされていた。

その後の進行はじつにスピーディで、同年 10月末には日本から送られた2台の「初代グロリア」用ベアシャシーに5座クーペと4座コンバーチブル・ボディを架装したプロトタイプが完成、11月3日から開かれた第42回トリノショーに「スカイラインスポーツ」として出展され、好評を博した。
今日でいうところの、もちろん日本車としては初の海外ショーにおける「ワールドプレミア」であり、ブースには和服をまとったイタリア女性のコンパニオンが寄り添っていたという。

契約締結からデビューまで半年足らずという短期間、しかも互いに初めて組んだパートナーであるにもかかわらず、デザインの本場で認められるほどクオリティの高い仕事をなしえた理由には、ミケロッティの才能、そしてアレマーノおよび周辺産業の腕の確かさ、懐の深さが挙げられるだろう。加えて前出の井上氏がデザイナー/スタイリストとしてはもちろんのこと、各方面でプロデューサーあるいはコーディネーターとして尽力したであろうことは、想像に難くない。

トリノショー会場におけるコンバーチブル。中央左側の眼鏡の紳士は、当時のグロンキ伊大統領とのこと。
第43回:『トリノの風薫る』プリンス・スカイラインスポーツ(1962-63)(その2)(田沼 哲)

肝心のミケロッティによるスタイリングは、俗に「チャイニーズ・アイ」と呼ばれる斜めに配置されたデュアル・ヘッドライトが最大の特徴。実用車のシャシーに架装されたためやや腰高な感じは否めないが、それでもベースカーに比べれば格段にスマートに変身しており、全体の雰囲気はアルファ・ロメオ2000スパイダーやランチア・フラミニアクーペなど、同時代のイタリア製高級パーソナルカーに通じるものがあった。メカニズム関係はグロリア用をそのまま流用していたが、エンジンはGB4型と呼ばれる直4OHV1862ccを、吸排気系を改良して最高出力を80psから90psまで高めて搭載していた。(つづく)(文=田沼 哲/2005年11月)

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田沼 哲

田沼 哲

NAVI(エンスー新聞)でもお馴染みの自動車風俗ライター(エッチな風俗ではない)。 クルマのみならず、昭和30~40年代の映画、音楽にも詳しい。