第74回:「死の谷」が語りかける〜もうひとつの足尾公害事件〜(その3)(矢貫隆)

2005.11.22 エッセイ

第74回:「死の谷」が語りかける〜もうひとつの足尾公害事件〜(その3)(矢貫隆)

上流であるにもかかわらず、河原は異様なほど広い。流れる水を見つけるのが難しいくらいだ。
まわりの山々は、どれも木々の抜けたハゲ山ばかり。これでは山の保水など望むべくもなく、水は暴力的に谷を伝うだけだ。

■繰り返された土砂災害

河原に下りてみた。
松木沢は、さすがに渡良瀬川の最上流だけあって水は見事に澄んでいて、裸足で入るには思い切りが必要なくらい冷たい。
「川幅が狭いわりには河原の幅が広すぎやしませんか?」
A君、体力がなくてもさすがにインテリだけのことはある。指摘が鋭い。

足尾ダムが造られる以前のここは、もっと切れ込みの鋭いV字型の谷だったはずである。
ところが今は違う。雨が降るたびに谷に転げ落ちてきた石は松木沢の流れで下流に運ばれ、やがて海の砂になるはずだったのに、砂防ダムによって行く手を阻まれた。
膨大な量の石は足尾ダムを終点として堆積し、わずか数十年のうちに谷底をぐっと持ち上げてしまい、結果として河原の幅を、上流部にしては異様に広くしてしまったのだ。

だが、それも仕方がない。煙害などによって草木が奪われ保水力を失った松木渓谷の山々は、大雨が降るたびに、下流域に住む人々の生活を逼迫(ひっぱく)させるほど大量の土砂を押し流していたからである。

その被害の大きさは、下流域の農民が、大正の末期に「水源涵養に関する陳情」を何度も国会に行っていることからも推測できるだろう。台風のたびに下流域を襲う洪水と土砂。そして1947年(昭和22年)のカスリーン台風がもたらした大災害を契機に、当時としては日本で最大の砂防のための足尾ダムが造られたのだった。
けれど前述したとおり、そのダムさえも今では完全に土砂で埋まった。

何のことはない。僕たちが目にした山の修理も、上流にしては異様に広い河原も、埋めつくされたダム湖も、あるいは、かつて頻発した洪水も、その不自然な光景や現象は、もとをただせば、すべて足尾精錬所の煙突から排出された煙が原因していたのである。

「松木渓谷を中心に足尾の山に煙害が広がり始めたのはいつ頃からだったんですか?」
1885年(明治18年)に足尾銅山で採掘された銅の生産高が4000トンに達してからだといわれている。(つづく)

(文=矢貫隆/2005年11月)

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矢貫 隆

矢貫 隆

1951年生まれ。長距離トラック運転手、タクシードライバーなど、 多数の職業を経て、ノンフィクションライターに。 自動車専門誌「NAVI」(二玄社)に「交通事件シリーズ」(終了)、 同「CAR GRAPHIC」(二玄社)に「自動車の罪」「ノンフィクションファイル」などを手がける。 「自殺-生き残りの証言」(文春文庫)、「通信簿はオール1」(洋泉社)など、著書多数。