第72回:「死の谷」が語りかける〜もうひとつの足尾公害事件〜(その1)(矢貫隆)

2005.11.17 エッセイ

第72回:「死の谷」が語りかける〜もうひとつの足尾公害事件〜(その1)(矢貫隆)

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田中正造が天皇に直訴したことで有名な足尾公害事件。すべては足尾銅山から始まった。
江戸時代(1610年)に開山、明治時代には日本の銅の半分近くを生産するなど、わが国の工業化の重要な起点として昭和48年(1973年)まで稼動した。役割を終えた足尾精錬所は、廃墟として、亡霊のように今も足尾の谷を見つめている。
田中正造が天皇に直訴したことで有名な足尾公害事件。すべては足尾銅山から始まった。江戸時代(1610年)に開山、明治時代には日本の銅の半分近くを生産するなど、わが国の工業化の重要な起点として昭和48年(1973年)まで稼動した。役割を終えた足尾精錬所は、廃墟として、亡霊のように今も足尾の谷を見つめている。

平和でのどかな戦場ヶ原でのハイキングを終え、「クルマで登山」取材班が向かったのは栃木県足尾町。そう、日本で最初の公害とされる足尾鉱毒事件の舞台となった場所だ。そこには、100年前の傷跡が今なお生々しく残っていた。

■日本の公害の原点

日光周辺の地図を拡げてみると、中禅寺湖の真南に当たる山中から南に向かって1本の小さな川が流れでているのがわかる。久蔵沢である。

地図上の左端には、庚申山から流れでる仁田元沢が、そして、ふたつの沢のちょうど真ん中を流れているのが、日本百名山のひとつ皇海山を源とする松木沢だ。深い谷あいの3本の源流は、わずか数kmだけそれぞれ独立して流れ、1955年(昭和30年)に完成した巨大な砂防ダム、「足尾ダム」で合流し名を渡良瀬川と変える。

足尾精錬所は、この地にある。日本の公害の原点として知られる足尾鉱毒事件の、あの足尾精錬所である。今から100年以上も前のことだ。足尾精錬所が渡良瀬川に流した排水が下流域に大きな鉱毒被害をもたらした。
それが足尾鉱毒事件。

「田中正造ですね」
うん、田中正造だ。明治天皇に鉱毒被害を直訴しようとした田中正造だ。

戦場ヶ原ハイキングを終えた僕たちは、日光市内からクルマで30分ほど走って足尾へとやってきた。正確には、わたらせ渓谷鉄道の終点、間藤駅から渡良瀬川沿いに少しだけ走り、一般道の行き止まりである足尾ダムのすぐ横にやってきていた。

A君。あの廃墟のように見える建物が足尾精錬所だ。
「鉱毒事件と関連づけて眺めるせいか、何となく不気味ですね。ここにきた目的は、鉱毒事件の検証ですか?」

そうじゃない。足尾の公害といえば鉱毒事件を連想するけれど、実は、もうひとつの悲惨な公害が同時に発生していたんだ。
煙害だよ。精錬所は、煙突から亜硫酸ガスを含む有毒な煙を大量に排出し続け、その結果、煙の通り道となった谷筋の斜面の広大な面積の木々を枯らし、ついには、ひとつの村までも消滅させてしまった。

「亜硫酸ガスということは、酸性雨で?」
そう。『枯れゆくブナの森』では檜洞丸のブナの枯死問題を書いた。自動車排ガスなどを原因とする大気汚染が木々を枯らしているという話だった。
で、今回は、その続きで、大気汚染を放置しておくとどんな結果を招くかを知るために我々はこの地にやってきたというわけなのだ。

「煙害で村が消えた!?」
100年前のことだ。松木村が消えた。(つづく)

(文=矢貫隆/2005年11月)

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矢貫 隆

矢貫 隆

1951年生まれ。長距離トラック運転手、タクシードライバーなど、 多数の職業を経て、ノンフィクションライターに。 自動車専門誌「NAVI」(二玄社)に「交通事件シリーズ」(終了)、 同「CAR GRAPHIC」(二玄社)に「自動車の罪」「ノンフィクションファイル」などを手がける。 「自殺-生き残りの証言」(文春文庫)、「通信簿はオール1」(洋泉社)など、著書多数。