【年末年始特別企画】絲山秋子の自動車エッセイ「即断即決2004」

2004.12.30 自動車ニュース
 

絲山秋子の自動車エッセイ

年末年始特別企画の第一弾は、『NAVI』に小説「スモールトーク」を連載していた絲山秋子さんのエッセイをお届けする。2004年は、初の単行本を発表しさらに川端康成賞を受賞するという、作家として素晴らしい成果を残した年だった。「クルマ好き」の絲山さんにとっては、2004年とはいかなる年だったのだろうか……。

「イッツ・オンリー・トーク」
文藝春秋
1500円
 

■即断即決2004

年明けの頃は、本当に食べていけるんだろうか、という不安がいつも頭から離れなかったが、その後仕事の環境が良くなり、結果として3冊の単行本を出すことが出来た。いい年だった。
一番困っていたときにNAVIの「スモールトーク」の連載をいただいたことに、私は相当な恩義を感じている。これがなかったら私はバイト暮らしに逆戻りしていたかもしれなかった。そのくらい危機感があった。

元からクルマを見るのは好きだったが、運転を覚えたのは就職してからの営業車だった。こんなに楽しいことをなぜ今まで知らなかったのだろうかと思った。会社のクルマがカローラバンだったから、自分のクルマは似ていない方がいいと思い、フィアット・パンダを買った。
当然のようにNAVIも、バブルの頃から読んでいた。
小説を書くようになって、物語の中にも実際の車名を書き散らした。それがNAVI編集部の目に止まったらしい。クルマがたくさん出てくる小説を書いて欲しい、と連載の依頼を受けた。

「海の仙人」
新潮社
1365円

 

「クルマはなんでもご用意いたします」
これ以上の殺し文句はない。ひとたまりもなかった。
「なんでも、ですか?」
「ええ」
「TVRでも?」
「もちろん」
私は震えた。こんな話、他の作家にとられてたまるかと思った。その場でやります、と答えた。
それからしばらくの間、プロットを考えながら、出てくるクルマを選定する作業はとても楽しかった。レストランでメニューを決めたり、旅の支度をするように楽しかった。自家用車はずっとフィアットなのに、結果的にイギリス車を多く選んだのは自分でも意外だった。

「袋小路の男」
講談社
1365円
 

私は、クルマ好きだけれど特別運転が上手なわけではないから、試乗してクルマの良さや性能を十分に引き出せたとは思っていない。それでも、持っていたイメージと違うところは多くあった。それを自分の言葉で書けていたらいいなと思う。「馬には乗ってみよ」というのはその通りだと思う。

試乗や打ち合せの日、二玄社と家を往復するのはぼろぼろになったフィアット・ティーポだった。ジャガーやアストンに乗った帰り、自分のクルマに乗り換えると、なんだかよそ行きの服から楽なジャージに着替えたような気持ちがした。どんなにいいクルマに乗っても、心安らぐのはやはり自分のクルマだ。自分だけの空間がそこにあるからだ。


フィアット・ティーポ
 

物語に出てくる場所には全て実際に行った。景色のメモを書いたり、その場所で主人公がどう感じるのかを考えた。中にはせっかく行ったのに使えない場所もあって、そういうときは改めて自分のクルマで別の場所を探した。
そんな個人的な取材からの帰り道、川端康成賞受賞の報があった。全く考えてみたこともなかった栄誉なので驚いた。
「お受けになりますか」
迷うわけがない。

試乗は、月に一度とは言っても、慣れない者が豪華な料理を食べ続けるようなもので、あまりにもいいクルマに乗り続けて後半は正直なところ辛かった。乗り慣れた営業車のカローラバンを思いだすのは、お茶漬けが食べたくなるようなものだろうか。


クーペ・フィアット


絲山秋子(いとやま・あきこ)
作家。2003年、第96回文學界新人賞受賞(「イッツ・オンリー・トーク」)。2004年、NAVI5月号から10月号まで『スモールトーク』を連載。「袋小路の男」で、第30回川端康成文学賞受賞。2005年、書き下ろし単行本『逃亡くそたわけ』(中央公論新社)を刊行予定。
 

連載の最後の頃、私は、調子が悪くなってきていた自家用車を国産車に替えようかと思った。それほど醜くないクルマならイタ車でなくてもいいと思ったからだ。しかし、カルディナを買おうと思って行った中古車屋には、よりによってクーペ・フィアットが展示してあった。パンダに乗っていた頃に欲しくて何度もショールームに見に行って、けれど買えなかった高嶺の花だった。それが、中古でのカルディナとそれほど変わらない価格で展示されていたのだから、これも一瞬で決まってしまった。今の自分には少し良すぎるクルマなのではないかとも思ったが、今を逃したらもうチャンスはないかもしれないと思った。初めてのスポーツカーは今のところ、とても快適だ。

今年、大事なことはみんな一瞬で決まった気がする。引越の時も迷わなかった。電撃結婚だけはしなかったけれど、そういう話は来年もなさそうである。

(文=絲山秋子/2004年12月)

この記事の大きな画像を見るためには、画像ギャラリーをご覧ください。