第20回:まさかの事態(前編)

2013.07.03 エッセイ

ついにこの日がきた

まさかの事態は、いや、正確には、まさかの事態に至る発端は、厚生年金病院のすぐ前に差しかかり、客が「そこで止めて下さい」と言った正面玄関まであと5メートルくらいという地点で起きた。

完全に停止態勢に入っていたリーフのタイヤから、あっという間(たぶん数秒で)に空気が抜けていくのを運転手(=矢貫 隆)は感じ、パンクだとすぐにわかったが、同時に、タイヤに開いた穴はすごくでかいに違いない、とも感じていた。それほどの勢いでタイヤがフラットになったからだ。

瞬間、運転手の頭のなかをいくつも雑念が駆けめぐった。どうすんだよ、水揚げ(売り上げ)、まだ1万円もできていないのに、とか、昼飯を早めに食べておいてよかった、とか、目的地に着いてからのパンクだったのがせめてもの救い、とか、ついにこの日がきたか、とか。

ちなみに、最後の「ついに……」は、パンク時の対応について、である。

思い起こせばリーフタクシーの担当に指名された日(第10回参照)、もうひとりのリーフ担当運転手、斉藤孝幸さんが言っていた。

「矢貫さん、知ってました? リーフってスペアタイヤないんっスよ」
「パンクしたら、これ使うんっスよ」

斉藤さんはそう言って、トランクルームの壁面にジャッキといっしょに納まっている応急修理キットを示したのだった。

あの日から1年余、パンクなんて誰しもが望まない事態、と言うより、ほぼ想定外の事態なわけで、そりゃそうだろう、タクシーの運転手をしてこのかた、パンクなんて一度もしたことがないのだから、パンクはしないものだと都合いいように思い込んでいる。ハナからパンクは頭にないも同然。そんなとき、突然のパンクである。で、斉藤さんの「パンクしたら、これ使うんっスよ」が頭によみがえり、ついに、と思ったわけである。ついに応急修理キットを使う日がきたか、と。

JR飯田橋駅前から大久保通りを新宿・大久保方面に走りだすと、ほんの300メートルほど先の右側に厚生年金病院はある。さらに先に進めば観光客でにぎわう神楽坂上の交差点。逆方向に目をやれば、飯田橋の、見ようによっては五差路とも六差路とも七差路ともいえる変則の大交差点のために厚生年金病院前の大久保通りはいつも渋滞している。

と、そんな場所で、それでなくても珍しがられて目立つリーフがパンクして、応急修理キットを抱えた運転手が右往左往しているんだから格好悪いったらありゃしない、という図を想像してもらいたい。運転手は、早いことこの状況に決着を付け、さっさと立ち去りたいと、ただ、その一心で右往左往しているのだと察してもらいたい。だから、なんで斉藤じゃなくて俺なんだよ、と悪態をつきながらの右往左往もしょうがないと容赦願いたい。

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矢貫 隆

矢貫 隆

1951年生まれ。長距離トラック運転手、タクシードライバーなど、多数の職業を経て、 ノンフィクションライターに。自動車専門誌『NAVI』(二玄社)に「交通事件シリーズ」(終了)、 同『CAR GRAPHIC』(二玄社)に「自動車の罪」「ノンフィクションファイル」などを手がける。 『自殺-生き残りの証言』(文春文庫)、『通信簿はオール1』(洋泉社)、 『タクシー運転手が教える秘密の京都』(文藝春秋)など、著書多数。

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