第335回:ほこりまみれ&傷だらけの「未再生車」が人気のヒミツ

2014.02.21 エッセイ

昔くず鉄、今8600万円

先日、カースコープ「ちょっと古いフェラーリのお値段は?」でお伝えしたとおり、2014年2月パリでは、ヒストリックカー見本市「レトロモビル」にあわせて、著名オークションハウスによるセールが相次いで開催された。その数は、昨年の2社2セールから3社4セールに増えた。
それら4オークションで目立ったのは未再生車の活況だ。そのほとんどは、カーヴの中に長年置かれたワインのごとく、ほこりをかぶった状態で誇らしげにディスプレイされていた。

まずはイギリスを本拠地とするオークションハウス「ボナムス」がグランパレで行ったセールから。
【写真1・2】は戦後フランスの超高級車「ファセル・ヴェガ・ファセルII」(1962年)である。新車時に大西洋を越えて米国にわたったこのクルマは、2代目オーナーのもとで40年にわたりガレージに納められたまま過ごしていた。

2900台生産されたファセル車を丹念に追う専門家も、これまでこの個体は消滅してしまったと考えていたという。レストアを施せば十分にコンクール・デレガンス出場車になりうるとの事前評価が功を奏したか、想定価格をわずかに上回る15万5250ユーロ(約2173万円)で落札された。

次は、フランスの著名なカロシエ、フィゴニ・エ・ファラシによるボディーをまとった1951年「シムカ8 1200スポール」だ【写真3】。6台が製作されたといわれるこのクルマは、当時ブリュッセルの、ある夫人が購入した。やがて1970年に孫娘夫婦に譲ったが、1973年に最後の車検記録を残したまま、こちらも今日まで40年以上車庫にしまわれたままだった。こちらも想定価格を上回る4万3700ユーロ(約612万円)でハンマープライスとなった。

パリのオークションハウス「アールキュリアル」が出品したアンリ・シャプロン製ボディーの1937年「ドライエ135クーペ デザルプ ロードスター」【写真4】の物語も面白い。初代オーナーは、フランス南東部オートサヴォワの青年実業家だった。彼はのちに第2次世界大戦中、抗独レジスタンスに参加したことから、1944年のアヌシー解放では、パレードにこのクルマが使われた。

やがて1951年に2代目オーナーに売却された。だが、彼は修理工場にこのクルマを残したままこの世を去ってしまった。工場は預かり代金が支払われなくなると、さっさとクルマを売ってしまう。売却価格170フランは、くず鉄代金相当だったという。しかしそのとき購入したオーナーは整備とその記録を丹念に行ったばかりか、1960年代を通じてレースにも参加。今日まで保存し続けた。このクルマは想定価格内の61万9840ユーロ(約8676万円)にまで競り上がった。

【写真1】「ボナムス」が出品した1962年「ファセル・ヴェガ・ファセルII」。
【写真1】「ボナムス」が出品した1962年「ファセル・ヴェガ・ファセルII」。
【写真2】「ファセル・ヴェガ・ファセルII」のリアビュー。40年間、ガレージで惰眠をむさぼっていた。ボディーカラーはピーコックブルー。
【写真2】「ファセル・ヴェガ・ファセルII」のリアビュー。40年間、ガレージで惰眠をむさぼっていた。ボディーカラーはピーコックブルー。
【写真3】フィゴニ・エ・ファラシのコーチワークによる1951年「シムカ8 1200スポール」。こちらも約40年間、しまわれたままだった。
【写真3】フィゴニ・エ・ファラシのコーチワークによる1951年「シムカ8 1200スポール」。こちらも約40年間、しまわれたままだった。
【写真4】「アールキュリアル」のオークションで。数奇な運命をたどった1937年「ドライエ135クーペ デザルプ ロードスター」。
【写真4】「アールキュリアル」のオークションで。数奇な運命をたどった1937年「ドライエ135クーペ デザルプ ロードスター」。

この記事の大きな画像を見るためには、画像ギャラリーをご覧ください。

大矢 アキオ

大矢 アキオ

コラムニスト。国立音楽大学ヴァイオリン専攻卒にして、二玄社『SUPER CG』元編集記者、そしてイタリア在住20年という脈絡なき人生を歩んできたものの、それだけにあちこちに顔が広い。今日、日本を代表するイタリア文化コメンテーター。10年以上にわたるNHK『ラジオ深夜便』リポーター、FM横浜『ザ・モーターウィークリー』季節ゲストをはじめラジオでも活躍中。『Hotするイタリア』『イタリア発シアワセの秘密 ― 笑って! 愛して! トスカーナの平日』(ともに二玄社)、『カンティーナを巡る冒険旅行』『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(ともに光人社)、電子書籍『イタリア式クルマ生活術』(NRMパブリッシング)など数々の著書・訳書あり。