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スバルと航空機の切っても切れない関係

2017.11.15 デイリーコラム

創立当初から受け継がれるスバルの文化

ちょっと詳しい人なら、スバルの前身が中島飛行機という航空機メーカーだった歴史をご存じのことだろう。もうちょっと詳しい人なら、スバルが今も航空宇宙産業を手がけていることも知っているかもしれない。今日のスバルを考える上で、“航空機”は避けては通れない。ブランドの成り立ちから、社風、将来にわたって、航空機はスバルに大きな影響を与える存在だったのだ。そこで、今回はスバルの航空機に関するエトセトラをおさらいしてみようと思う。

スバルのルーツは、1917年(大正6年)に元海軍大尉の中島知久平が創立した飛行機研究所だ。個人によって生まれた飛行機会社は、後に中島飛行機になり、終戦のごたごたを経て現在まで100年の歴史を歩んできた。興味深いのは、その黎明(れいめい)期である大正時代に、現在のスバルの特徴である「安心と愉しさ」の源流があったということだ。

それは設計思想であった。大正から昭和に変わる中島飛行機の黎明期、当時の日本には、まだオリジナルで飛行機を開発する力がなかった。そんな中、1927年(昭和2年)、陸軍による国産戦闘機の開発コンペが行われる。競争に名乗りをあげたのは、中島飛行機をはじめ、三菱、川崎、石川島の4社。その4社は、オリジナル機を開発するために、それぞれに欧州から技術を招聘(しょうへい)する。中島飛行機は、当時のトップ戦闘機メーカーであったフランスのニューポールからアンドレ・マリー氏とブレゲ社のロマー技師を招き、その下に次世代の中島飛行機を担う若いエンジニアを助手にあてた。三菱ほか3社は、ドイツのエンジニアを招聘する。

中島飛行機でチーフエンジニアを務めたマリー氏の設計思想には特徴があった。それは「パイロットをいかに殺さないか」と「パイロットの思う通りの操縦運動性能を持つこと」の2点。そうして生まれた試作機は見事に陸軍に「91式戦闘機」として採用されることになる。マリー氏の下で飛行機づくりを学んだ若きエンジニアたちは、後に一式戦闘機「隼」や四式戦闘機「疾風」などの傑作機を開発。また防弾タンクや防弾パネルなどを率先して採用した。もちろん運動性能の高さはどれも一級品だった。安全であること、意のままに操れることを尊ぶスバルの社風は、草創期から連綿と受け継がれるものだったのだ。

「ボーイング787-8」と「スバルWRX STI」。ボーイング787-8の中央翼をスバルが製造している。
「ボーイング787-8」と「スバルWRX STI」。ボーイング787-8の中央翼をスバルが製造している。
スバルの源流となった飛行機研究所、および中島飛行機の創設者である中島知久平。
スバルの源流となった飛行機研究所、および中島飛行機の創設者である中島知久平。
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