第49回:『唯一無二』日野コンマース(1960-62)(その4)

2006.09.13 エッセイ

第49回:『唯一無二』日野コンマース(1960-62)(その4)

プロモーションの一環として日野の広報誌上で募集し、掲載された「誌上デザインコンクール」。
プロモーションの一環として日野の広報誌上で募集し、掲載された「誌上デザインコンクール」。
これもデザインコンクールの応募作だが、まるで往年の欧州製ミニカーのような、ポップで洒落たカラーリングのモデルが揃っている。
これもデザインコンクールの応募作だが、まるで往年の欧州製ミニカーのような、ポップで洒落たカラーリングのモデルが揃っている。
ストロークを5mm延長し、それまでの836ccから893ccにスケールアップした直4OHVの「GP型エンジン」。最高出力は28ps/4600rpmから35ps/5000rpmに、最大トルクは5.3kgm/2800rpmから 6.5kgm/3200rpmに向上した。
ストロークを5mm延長し、それまでの836ccから893ccにスケールアップした直4OHVの「GP型エンジン」。最高出力は28ps/4600rpmから35ps/5000rpmに、最大トルクは5.3kgm/2800rpmから 6.5kgm/3200rpmに向上した。

■自慢の機構がアダに?

新しいコンセプトのトランスポーターとして、1960年2月に発売された日野コンマース。だがそのセールスははかばかしくなかった。
原因として考えられるのは、まずは日野の販売力の弱さ。大型トラックやバスでは実績があったものの、小型車に関してはコンマース以前にはルノーしか経験がなかったため、市場調査から生み出された商品とはいえ、実際の販売にあたっては戸惑いや見込み違いなどがあったのかもしれない。

そしてこれまた推測に過ぎないのだが、製品自体にも何か問題、というか敬遠される要素が存在したのかもしれない。その可能性が高いのが、自慢の新機軸だった前輪駆動(FF)である。前輪が駆動と同時に操舵も行うFFでは、ドライブシャフトに角度が可変する「ユニバーサルジョイント(自在継ぎ手)」を使う必要があるが、このユニバーサルジョイントはある程度の角度が付くと、伝わる回転が等しくなくなる。つまりステアリングを大きく切ると前輪の回転が一定でなくなり、振動を起こしてしまうのである。

こうした現象は古いFF車に共通する問題だったのだが、この弱点を是正するために開発されたのが「等速ジョイント」、すなわち操舵角に関係なく回転を等速で伝える継ぎ手だった。当初は高価だった等速ジョイントも、59年に誕生した今日のFF小型車の原点といえるBMCミニ(ADO15)以降、次第に小型車にも普及していくのだが、コンマースが登場した時点では、日本ではまだ部品自体が作られていなかった。

コンマースでは高級な等速ジョイントを使わずとも、比較的シンプルな特殊ユニバーサルジョイントによってトルク変動を完全に吸収し、「急坂路をフルトルクで登坂中、舵取り角度をいっぱいにハンドルを切ってもスムーズに運転できます」と謳ってはいた。だが、新しいうちは問題なかったとしても、ジョイントが摩耗するにしたがって異音や振動を発した可能性は、ヘビーユーザーが多いであろうトランスポーターゆえに十分に考えられる。

また初期のFF車といえば、ステアリングの重さも欠点として挙げられることが多かった。コンマースでは適当なホイールアライメントとステアリングレシオにより、操舵力は軽く戻りも良好とされていたが、はたして実際はどうだったのか。

さらにもうひとつ考えられるのは、「その1」の冒頭に記したトラクションの問題。通常の使用では問題なくとも、過積載によって前輪荷重が軽くなってしまい、その結果十分な駆動力が得られなくなってしまう……というような事態も、当時の日本の状況では考えられないことではなかったと思われる。

「コンテッサ」
「コンテッサ」
「コンテッサ」の構造図。エンジンはコンマースと共通のため、パワートレインはFFからRRにそのままひっくり返したように思えるが、ギアボックスはコンマースの4MTに対して3MTだった。
「コンテッサ」の構造図。エンジンはコンマースと共通のため、パワートレインはFFからRRにそのままひっくり返したように思えるが、ギアボックスはコンマースの4MTに対して3MTだった。
「コンテッサ」と同時にデビューした750kg積み小型ボンネットトラックの「ブリスカ」。後にダブルピックやライトバンも追加されたが、成り立ちがオーソドックスなせいか販売はコンマースより堅調だった。
「コンテッサ」と同時にデビューした750kg積み小型ボンネットトラックの「ブリスカ」。後にダブルピックやライトバンも追加されたが、成り立ちがオーソドックスなせいか販売はコンマースより堅調だった。

■当初からカルトカー

などと、FFを採用したことに対するネガティブな推論を並べ立ててしまったが、日野がコンマースで見せた進取の精神には敬意を表しており、けっして悪意はない。ただ、あまりにコンマースの販売が振るわなかったゆえに、あれこれ考えてしまうのだ。
では実際どれだけ売れたのか? という話をする前に、発売後のコンマースの動きについて触れておきたい。

「その1」でも述べたように、日野はコンマースの発売から1年ちょっとを経た61年4月、初のオリジナル乗用車である「コンテッサ」を発表する。コンテッサはルノー同様のRRだったが、そのエンジンはコンマース用のストロークを延長(60×79mm)した893ccで、最高出力35ps/5000rpm、最大トルク 6.5kgm/3200rpmを発生した。さらにそのコンテッサ用エンジンをラダーフレームのフロントに積み、後輪を駆動するオーソドックスなボンネットトラック「ブリスカ」も同時に発売された。

時期は定かではないが61年中に、これら2車の後を追ってコンマースのエンジンも893ccに換装される。たいして大きさの違わないエンジンを2種作るのは、考えるまでもなく不合理なので当然の措置だが、これによって最高速度は82km/hから90km/hに向上、バンの最大積載量は2人乗りが500から 600kgに、5人乗りが300から400kgに引き上げられた。また型式名はPB10からPB11となった。
それにしても、GP型と呼ばれるこのエンジンは、RR、FR、FFという3種類の駆動方式のモデルに同時期に並行して積まれたことになる。世界的に見ても、これはかなり珍しいことだろう。

さてコンマースだが、こうしたエンジン増強もカンフル剤とはならず、これまた時期は特定できないが62年中には生産中止されてしまった。2年といくばくかの生涯における総生産台数は、日野の資料によればわずか2344台。ちなみに「これっきりですかー」の第16回から19回にかけて紹介した「ハンドメイドの大衆車」こと「スズキ・フロンテ800」の生産台数は、約3年半で2717台。これについて筆者は「60年代以降に生まれた国産車、それも特殊なスポーツカーなどではなく実用サルーンとしては、おそらくこれは最少記録ではないだろうか」と記したが、生産期間および乗用車と商用車の違いはさておくとして、コンマースはこの記録を塗り替えてしまったわけだ。これではとてもじゃないが、開発費の回収など不可能だったに違いない。

ちなみに日野はその後64年に「コンテッサ」の後継モデルである「コンテッサ1300」、65年に「ブリスカ」をモデルチェンジした「ブリスカ1300」を発売した。しかし66年にトヨタと業務提携を結んだ結果として、コンテッサは67年に生産中止され、ブリスカも一時期トヨタブランドで生産したのちに68年には消滅。乗用車、商用車とも小型車部門からは撤退してしまった。つまりコンマースからのフィードバックが活かされる機会は、少なくとも一般生産車に関してはなかったのである。

新車当時から言ってみれば「レア車」「カルトカー」の類いだったコンマースの残存車両は、きわめて少ないと言われている。筆者が確認しているのは、八王子にある日野自動車の歴史ミュージアム「日野オートプラザ」に展示してあるバン1台のみだが、はたして実働車両はあるのだろうか。もしあるのなら、ぜひとも拝見したいものである。(おわり)

(文=田沼 哲/2006年2月)

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田沼 哲

田沼 哲

NAVI(エンスー新聞)でもお馴染みの自動車風俗ライター(エッチな風俗ではない)。 クルマのみならず、昭和30~40年代の映画、音楽にも詳しい。