小林さんの言葉

ボクが入社して3年目の1991年のことだ。小林さんのお供でドイツおよびフランス東部に出張することになった。12年ぶりにモデルチェンジが行われた新型「メルセデス・ベンツSクラス」(W140)の、それもV12気筒搭載の最高級モデルにアウトバーン&オートルートで試乗するという企画だった。

出発前、「小林さんは疲れると人がいる席でも寝ちゃうから、そしたら大矢君が足を蹴飛ばすんだぞ」と、冗談とも本当ともとれぬ指示を先輩社員から受けた。
ボクは、他にアポイントメントがあって先発していた小林さんとパリから来た長年のカーグラフィック特派員ジャン・ポール・キャロンさんと、シュトゥットガルトの宿で合流した。翌日、当時のダイムラー・ベンツの本社でクルマを借りた一行は、フランスのミュールーズへと向かった。
小林さんは、キャロン氏がいたからだろう、ナビゲーター役を引き受けながらたびたび道を間違えるボクを、決して叱るようなことはなかったが、さぞ困っていたに違いない。

それはともかく国境をまたいだあとの、あの宿でのことだ。ボクがロビーにあったピアノでショパンのワルツを弾いた。すると、隣の宴会場で行われていた結婚披露宴の一団に引っぱり込まれたうえ、ダンスに巻き込まれてしまった。
翌日その話を小林さんにしたのが、まずかった。なぜなら、小林さんは当時日本で流行していたセクシーダンス「ランバダ」と勝手に結びつけ、「大矢は、フランスのおばあさんたちと、ランバダを踊った」と社内で長年にわたり吹聴したのである。

そして最後の晩のことである。アルザスの田舎にある小さなホテルに飛び込みで泊まることになった。エレベーターもなく、細いらせん階段をつたい、皆で上階までスーツケースを運び上げた。
学生時代からヨーロッパというと、都会巡りが主だったボクにとって、「こんなにのどかでひなびたところがあるのか」と衝撃的だった。
するとボクの気持ちを察したように、小林さんが「こういうヨーロッパの田舎はいいだろう」と言った。ボクは即座に「絶対また来ます!」と興奮して答えたのを覚えている。

夜は1階にある食堂で、3人で夕食をとることになった。食事の合間、間が持たなくなったボクは、キャロンさんを前にナプキンで折り紙の鶴を作ってみせた。するとどうだ。小林さんも、ナプキンをとって何かを折り始めるではないか。できたのは「二艘(そう)舟」だった。小林さんと「ランチア・ラムダ」やブガッティ談義をした人は数多くいるだろうが、折り紙対決をしたのは、幻の「P1スバル」を知る人くらいまれに違いない。

二艘舟を作った直後、小林さんは、本当に舟を漕(こ)ぎだした。あ、これぞ先輩の言っていたやつか。いくらSクラスとはいえ、1日600km近くのドライブは、疲れたのだろう。

本当に小林さんを蹴飛ばしていいのか? 果たしてどのくらいのトルクで? かつて手術をしたという細い足に万一のことがあったら?
ボクが「小林さん、ごめん」と心の中で念じながら蹴飛ばそうとした、その時、向かいにいて小林さんを察したキャロンさんが「では、明日も早いですから」と言った。
ボクは意識が戻った小林さんに、明日のスケジュールを話した。小林さんは、威厳を保とうとしたのだろう。ボクに「今言ったことをキャロンさんに英語で言ってみなさい」とおっしゃった。またキター! である。

翌朝、シュトゥットガルト空港でのことだ。キャロンさんがパリ行きの飛行機に乗ってから、ボクは小林さんとチェックインカウンターに向かった。小林さんは、ルフトハンザのカウンターでボクを指して「私は、こいつが嫌いなので、席を離してください」と言う。
言葉どおりだったのかもしれないが、今となっては、これも長時間のフライト中、若造のボクに緊張を強いることのないように、という小林さんの配慮だったと考えよう。

フライトを待つ間、小林さんはボクに言った。
「キミは、旅が好きなようだね」。
ボクは二玄社に入社してからも有給休暇をフルに使っては、個人で世界各国を旅していた。そのためだろう、たびたび一部の役員や先輩から「大矢君はバカンスをとるのがうまい」と嫌みを言われる始末だった。だから、小林さんの口からそう言われたときも身構えた。

しかし、小林さんの言葉には続きがあった。
「日本ではたとえ有名でも、一歩国を出ると一人で動けないジャーナリストがほとんどだ。キミはそうでない、一人で歩き回れる人になってください」
――実際のボクは、そのときの小林さんの言葉を心に刻みつけた、などという優秀でカッコいい人間ではない。それでも今、イタリアに住んで日々悪戦苦闘しながらも物書きを続けていることが、最後の部下から小林さんへの唯一の恩返しであると信じているのである。

(文=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/写真=fiat、ラムダインク)

©S-Kobayashi Photo Archives
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大矢 アキオ

大矢 アキオ

コラムニスト/イタリア文化コメンテーター。音大でヴァイオリンを専攻、大学院で芸術学を修める。1996年からシエナ在住。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとして語学テキストやデザイン誌等に執筆活動を展開。19年にわたるNHK『ラジオ深夜便』リポーター、FM横浜『ザ・モーターウィークリー』季節ゲストなど、ラジオでも怪気炎をあげている。『Hotするイタリア』『イタリア発シアワセの秘密 ― 笑って! 愛して! トスカーナの平日』(ともに二玄社)、『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり】(コスミック出版)など著書・訳書多数。YouTube『大矢アキオのイタリアチャンネル』ではイタリアならではの面白ご当地産品を紹介中。

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