これは序章なのか……

テーマは、『ドライブ・マイ・カー』と同じである。男は女をついに理解することができず、不可解な偶像として距離を置こうとする。問題はここでも女の側ではなく、彼の中にあるのだ。真実を知る恐れの前に立ちすくみ、コミュニケーションを拒絶しているのは男である。解釈しようとする姿勢そのものが茶番であり、女性の生の存在感の前には無力である。彼女たちは“好奇心と探究心と可能性”を武器に、前を向くことのできない男たちを圧倒するのだ。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ時は、正直なところかなり心配になった。しかし、村上春樹は戻ってきた。アフォリズムを連発する独特のキレのよさも復活している。小説中の分身に「決めの台詞を口にしすぎることも、僕の抱えている問題のひとつだ」と言わせるという自虐ギャグを潜ませる余裕があるところに好調さが見える。

村上は、小説でクルマを効果的に使うことのできる数少ない作家のひとりである。自動車の知識を持っていて、自らドライブすることを好む。『ドライブ・マイ・カー』の中に「彼女はいつも運転に神経を集中していた。あるいは運転によってもたらされる特殊な禅の境地にひたっていた」という表現があった。まるで舘内端の怪著『クルマ運転秘術』から引用したかのようだ。

この連作短編が最終的にどんな形を取ることになるかは、今はまだわからない。さらに同じテーマでさまざまな物語が綴られていくのかもしれないし、この中から長編小説に発展していく可能性もある。実は『ドライブ・マイ・カー』には、家福とみさきに不思議な縁があることが示唆されている。彼らの間には、超自然的なつながりがあるようなのだ。2年ぐらい後に、この小説を序章とする長編小説が書かれるのではないかと、密(ひそ)かに期待している。

(文=鈴木真人)

鈴木 真人

鈴木 真人

名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。

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