全編にあふれるすがすがしい疾走感

描かれているのは、恋愛ではない。もっと観念的なものだ。大友とカナが夏芽とコウの関係を神聖視するのは、そこに生身の肉体を見ていないからだ。夏芽はコウを絶対的な存在だと感じ、自分が成長して彼に近づきたいと強く願う。もちろん、これは錯覚だ。彼が神の特別な力をまとっているなんて、幻想でしかない。

ただ、彼らにとっては真実なのだ。つまらない日常を輝かしい物語だと信じることのできる、人生の中でごく短い季節を生きている。山戸監督は、この特別な時期を切り取ろうとする。彼女はこれまでも少女を描いてきた。少女は肉体を持たない。観念と夢と衝動があるだけだ。

『おとぎ話みたい』では、趣里がすべての感情をダンスで表現していた。彼女はしなやかな動きで少女性そのものを現出させていたのである。趣里の美点を最大限に引き出した山戸監督の手腕には感服せざるを得ない。『とと姉ちゃん』では悲しくなるほど貧相な使われ方をしていた。

これまで山戸監督の作品では、音楽とダンスが重要な要素となっていた。今回は少し趣向が異なっている。夏芽もコウも、常に走っている。自分の足で走るだけでなく、自転車やオートバイでも走る。すがすがしい疾走感が全編にあふれている。山戸作品に出演するには、高い身体能力を身につけていなければならない。

©ジョージ朝倉/講談社 ©2016「溺れるナイフ」製作委員会
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鈴木 真人

鈴木 真人

名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。

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