企業と労働者がともに繁栄するという理想

『藁のハンドル』には、フォードの強烈な自負心を反映した主張がちりばめられている。
「私たちが繁栄しているから、自動車を持てたのではない。私たちは、自動車を持っているからこそ繁栄しているのである」
「わが国の全般的な繁栄は、農作物の収穫高とは関係なく、自動車の所有台数に正比例している」
「一日数セントのために、長時間働く中国の苦力より、自分の家や自動車を持っているアメリカの労働者のほうが幸福である。一方は奴隷であり、他方は自由人である」

生産の拡大が需要を呼び起こし、需要に応えるために企業が成長する。労働者には適正な賃金が支払われ、消費者として巨大な存在となっていく。すべてが好循環で、フォードの前には無限の可能性が広がっているように見えた。しかし、実際には危機が目前に迫っていた。自動車はすでにアメリカの隅々にまで行き渡り、市場は飽和しつつあった。旧態依然としたT型は、大衆の欲望に応えられなくなっていく。毎年モデルチェンジを繰り返して新奇さを強調するシボレーが、急速に競争力を高めていた。

1927年5月26日、突然T型の生産が終了する。次期モデルは開発されておらず、半年後にA型の製造が開始されるまで工場は動かなかった。1929年、大恐慌が自動車産業を手ひどく打ちのめした。フォードは著書の中で「管理さえ適切にやれば、『不況期』を迎えねばならない理由は毛頭ない」と宣言していたが、市場の論理は冷徹だった。

1918年にフォードは息子のエドセルに社長職を譲っていたが、実権は手放さなかった。早くからT型に代わるモデルを作るよう進言していたエドセルを一顧だにせず、己の信念を曲げなかったことが傷口を広げた。彼はボクサー出身のハリー・ベネットを総務部長に雇って労働組合に対抗し、融和的だった息子を批判した。しかし、経営者と労働者が鋭く対立すれば現場は混乱する。生産性の低下は誰の目にも明らかだった。

1943年、エドセルが早世するとフォードは社長に復帰したが、2年後に引退して孫のヘンリー・フォード2世に後を譲る。その2年後の1947年、ヘンリー・フォードは故郷のディアボーンで84年の生涯を閉じた。彼は大量生産のシステムを作ることで、企業と労働者がともに繁栄の道を歩めると信じていた。素朴で素直な資本主義の申し子であり、進歩と成長を心から信じることのできる幸福な時代を生きた。

(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)

フォードでの労働者待遇は改善を続け、1926年には1週間の勤務を5日に短縮。1929年には日給を7ドルに引き上げた。
フォードでの労働者待遇は改善を続け、1926年には1週間の勤務を5日に短縮。1929年には日給を7ドルに引き上げた。拡大
長年にわたりT型のみを造り続けてきたフォードに対し、ゼネラルモーターズは毎年のようにモデルチェンジを繰り返し、ユーザーの注目を集める方法をとった。写真はシボレー・ナショナル シリーズの1929年型2ドアクーペ。
長年にわたりT型のみを造り続けてきたフォードに対し、ゼネラルモーターズは毎年のようにモデルチェンジを繰り返し、ユーザーの注目を集める方法をとった。写真はシボレー・ナショナル シリーズの1929年型2ドアクーペ。拡大
工場からラインオフする「フォードA型」をドライブするヘンリー・フォード。
工場からラインオフする「フォードA型」をドライブするヘンリー・フォード。拡大
ヘンリー・フォード(左)とエドセル・フォード(右)。
ヘンリー・フォード(左)とエドセル・フォード(右)。拡大

「クォドリシクル」に乗るヘンリー・フォードと、孫のヘンリー・フォード2世。写真は1946年のもの。


	「クォドリシクル」に乗るヘンリー・フォードと、孫のヘンリー・フォード2世。写真は1946年のもの。
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