初めて輸出された日本車

1925年、東京・洲崎で行われた日本自動車競争倶楽部主催のレースに、オートモ号は唯一の国産車として参戦した。排気量ではるかに上回る外国車を相手に、わずか9馬力のオートモ号は奮戦して予選1位を獲得する。決勝では惜しくも2位に終わったが、3万人の観客から健闘をねぎらう大きな声援が送られたという。ちなみにこの時優勝したのは、アート商会が製作した「カーチス号」である。助手席でライディングメカニックを務めたのは、この会社で修理工として働いていた若き本田宗一郎だった。

手応えを感じた豊川は、オートモ号の本格的生産を開始する。カタログには女優の水谷八重子を起用するという斬新な試みを取り入れていた。約300台が生産され、日本初の量産車と呼ぶにふさわしい実績を残したのだ。特筆すべきなのは、オートモ号が国内で販売されただけでなく、輸出されたという事実である。1925年11月、上海に向けて2台が海を渡った。もちろん日本車としては初めてのことだ。

残念なことに、オートモ号は事業として成功するには至らなかった。日本の乗用車市場はアメリカ車にほぼ独占されていたのだ。1925年にはフォードがT型のノックダウン生産を開始する。その翌年にはゼネラルモーターズが大阪に工場を作って「シボレー」や「ビュイック」の生産を始めた。経験も規模も劣る白楊社に勝ち目はない。性能面でも価格面でも、アメリカ車は圧倒的な競争力を持っていた。

1928年、白楊社は解散を余儀なくされる。それでも、苦心の末にオートモ号を製造したことは、日本の自動車産業にとって大きな資産となった。開発に関わった池永 羆、大野修司、倉田四三郎らは後に豊田自動織機製作所自動車部に結集し、蓄えたノウハウを存分に発揮することになる。山羽虎夫から始まった数々の挫折は、後の成功への糧となった。

(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)
 

アート商会が製作した「カーチス号」。車名の通り、カーチス製の航空機用エンジンを搭載したレーシングカーであり、戦前のさまざまな自動車レースで活躍した。
アート商会が製作した「カーチス号」。車名の通り、カーチス製の航空機用エンジンを搭載したレーシングカーであり、戦前のさまざまな自動車レースで活躍した。拡大
1925年にフォードが神奈川に工場を建てたのに続き、1927年にはゼネラルモーターズが大阪に工場を建設し、現地生産を開始した。
1925年にフォードが神奈川に工場を建てたのに続き、1927年にはゼネラルモーターズが大阪に工場を建設し、現地生産を開始した。拡大
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