モータースポーツの印象を悪化させた暴走族

レースが盛況となるのと裏腹に、グラチャンはサーキット外の悩みを抱えていた。1970年代から80年代にかけて暴走族が社会問題となっており、彼らの行動がグラチャンのイメージを低下させたのだ。グラチャンの開催日には東名高速や中央高速に暴走族が集まり、会場周辺で集会を開いた。多くの観客が集まるグラチャンで、改造車を見せつけて存在を誇示するのが目的である。主催者も困惑し、「不法改造車での入場をお断りいたします」との文言をチケットに印刷したりしたが、さしたる効果は現れなかった。

ツーリングカーレースでは、性能向上のために改造を施された市販車がレースを行っていた。彼らはそれをまねた仕様のクルマを作って乗り込んできたのである。派手なウイングやオーバーフェンダーを装着していたが、多くはむしろ性能を低下させる飾りにすぎなかった。不良を気取るヤンキースタイルの流行ともシンクロし、特攻服に身を包んだ若者が違法改造車で襲来する。とばっちりを受けた形だが、グラチャン、そしてカーレース全体に対する世間の印象は悪化の一途をたどった。

1987年からは日本グランプリがF1のスケジュールに組み込まれ、中嶋の参戦もあってレースファンは急増した。しかし、1989年を最後にグラチャンは終了する。モータースポーツブームに乗ることができなかったのだ。プライベーター主体のレースは、F2も含めたフォーミュラが主流になっており、グラチャンの存在価値は薄れていた。

お手本にしたCan-Amシリーズも消滅し、グラチャンは世界的に見れば特異なレースでしかない。1988年から鈴鹿や菅生でも開催されるようになっていたが、対応は困難だった。長年富士スピードウェイだけで行われたことで、マシンがガラパゴス的進化を遂げていたからだ。

グラチャンは1989年に終止符を打つが、19年もの間日本のトップカテゴリーのレースであり続けたことになる。グラチャンとヤンキー文化は、時代が生んだ徒花(あだばな)だったかもしれない。ただ、それが日本にプライベーター主体のレースを根付かせたのも事実である。日本のモータースポーツを成熟させるための豊かな土壌となったのがグラチャンだった。

(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)

大会のたびにサーキットに集まる暴走族も、グランチャンピオンシリーズにとっては悩みの種だった。
大会のたびにサーキットに集まる暴走族も、グランチャンピオンシリーズにとっては悩みの種だった。拡大
ツーリングカーレースに投入された「マツダ・サバンナRX3」。当時の暴走族は、ウイングやオーバーフェンダーなどが装着されたレーシングカーの姿を模して、自分たちのクルマを改造した。(写真=FUJI SPEEDWAY)
ツーリングカーレースに投入された「マツダ・サバンナRX3」。当時の暴走族は、ウイングやオーバーフェンダーなどが装着されたレーシングカーの姿を模して、自分たちのクルマを改造した。(写真=FUJI SPEEDWAY)拡大
1987年に鈴鹿で初開催されたF1日本グランプリの様子。1980年代の後半にはF1やJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)などのレースが盛り上がり、日本でもモータースポーツブームが巻き起こった。
1987年に鈴鹿で初開催されたF1日本グランプリの様子。1980年代の後半にはF1やJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)などのレースが盛り上がり、日本でもモータースポーツブームが巻き起こった。拡大
グランチャンピオンシリーズ最後の年となった1989年の最終戦の様子。この年は、前年に続きジェフ・リース選手がタイトルを獲得し、グラチャン最後のシリーズチャンピオンとなった。(写真=FUJI SPEEDWAY)
グランチャンピオンシリーズ最後の年となった1989年の最終戦の様子。この年は、前年に続きジェフ・リース選手がタイトルを獲得し、グラチャン最後のシリーズチャンピオンとなった。(写真=FUJI SPEEDWAY)拡大
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