画期的な駆動装置を持っていたヴォワチュレット

ルノー家は、パリ郊外のビヤンクールでボタン製造業を営む裕福な一家だった。四男として生まれたルイは勉強嫌いの劣等生で、何度もスペリングのテストに落第する。取りえといえば、機械いじりが得意だったことだけ。父親は学業成績には落胆したが、息子の能力に光るものを見つけたようだ。古いパナールエンジンを買い与え、好きに触らせた。

14歳のルイは小屋にこもってエンジンの研究に没頭する。その後兵役につくと、射撃練習用の的を自動昇降させる装置や分解式の橋などを作って上官たちを驚かせた。除隊すると、彼は貯金をはたいてド・ディオン・ブートンの三輪自動車を購入して改造に取り組む。車輪を一つ増やし、四輪自動車に作り変えたのだ。エンジンをリアからフロントに移し、FR方式に変えるという大改造である。

システム・パナールを採用したわけだが、ルイは従来の駆動力の伝達方法に欠陥を見出していた。ファイナルドライブに革ベルトとプーリー、あるいはチェーンとスプロケットを用いる方式である。革ベルトではパワーロスが大きく、チェーンは油を大量に飛散させた。どちらも耐久性に問題があり、切れて走行不能に陥ることも珍しくなかった。

確実に駆動力を伝達するには鋼鉄製のシャフトが適していると考えたルイは、シャフトドライブ方式を発明する。ベベルギアによって車軸に動力を伝えるもので、現代でも同様のメカニズムが使われている。さらに、3段ギアボックスで最適な速度を選べるようにした。トップは直結のダイレクトドライブとなっており、リバースギアも内蔵する画期的な機構だった。

ルイは発明家を志していて、自ら自動車を製造するつもりはなかったようだ。しかし、事業として将来性があると考えていた兄のマルセルに背中を押される。ド・ディオン・ブートンを改造したモデルは年末に完成し、クリスマスパーティーで友人たちに披露された。試乗を希望する者を横に乗せて走ると、帰ってくるなりポケットから金を取り出して机の上に置いた。予約金である。ほかにも試乗希望者が殺到し、その夜のうちに12台の注文が入ってしまった。

ルイは自動車生産の資金を持っていなかったが、兄のマルセルとフェルナンが出資して1899年にルノー・フレール(ルノー兄弟)社が設立される。工作機械を導入して生産を開始し、半年で60台の「ヴォワチュレット」(フランス語で小型車の意味)が製品として出荷された。シャフトドライブの特許も認められ、特許料収入が会社の基盤を強化することになる。ビヤンクールには広大な自動車工場が作られていった。

アトリエで作業にいそしむ、若かりし頃のルイ・ルノー。
アトリエで作業にいそしむ、若かりし頃のルイ・ルノー。拡大
現存する「ルノー・タイプA」。
現存する「ルノー・タイプA」。拡大
「ヴォワチュレット」に使用されたシャフトドライブ式のパワートレインと、3段ギアボックスのイラスト。
「ヴォワチュレット」に使用されたシャフトドライブ式のパワートレインと、3段ギアボックスのイラスト。拡大
ビヤンクールに建てられたルノー・フレールの工場。自動車需要の増加にともない、その規模は拡大していった。
ビヤンクールに建てられたルノー・フレールの工場。自動車需要の増加にともない、その規模は拡大していった。拡大
1900年当時のルノー車に用いられたロゴ。今日のエンブレムに面影を残すひし形のロゴが使われ始めるのは、1920年代に入ってからだった。
1900年当時のルノー車に用いられたロゴ。今日のエンブレムに面影を残すひし形のロゴが使われ始めるのは、1920年代に入ってからだった。拡大
あなたにおすすめの記事
新着記事