GMでの成功と挫折

そのままクライスラーで働くつもりだったが、卒業式の祝辞を聞いて考えを変えた。『デロリアン自伝』によれば、技術部門の責任者であるジェームズ・ゼダーは学生に向けて居丈高に“従業員の心得”を説いたという。

「会社の決まりに適応せよ、それが生き残る道であり……個人であることは忘れることだ」。デロリアンの“反逆”は、この言葉を聞いた瞬間から始まったのかもしれない。大企業で働くことに意義を見いだすことができなくなり、パッカードの研究開発部門に就職した。

パッカードでの仕事は、やりがいのあるものだった。自動変速機の開発に没頭し、さまざまな技術的問題を解決していった。能力と実績が認められ、デロリアンは20代で研究開発部門の長となる。しかし、パッカードの経営は悪化しつつあり、彼はGMからのヘッドハントを受けて移籍を決意する。皮肉なことに、クライスラー以上の大企業で働くことになったわけだ。

ポンティアック部門に入ったデロリアンは、埋め込み式ワイパーの開発などで実績をあげる。1961年にはGMで最年少のチーフエンジニアになり、不振に陥っていたポンティアックの再生に取り組む。若者向けの市場に進出するために、まずゴテゴテしていたデザインをシンプルにした。ボディーを軽量化してさらに大型のエンジンを搭載し、サスペンションを一新した。性能が向上してストックカーレースで華々しい勝利を重ね、若々しくてスポーティーなクルマというイメージを焼き付けたのだ。

1964年には、コンパクトカーの「テンペスト」に強力なV8エンジンを載せたマッスルカーの「GTO」を売り出す。大ヒットを収めたが、このクルマの開発はGM首脳陣の承認を得ないまま極秘で進められたものだった。成功したにもかかわらず、デロリアンは社内で陰に陽に批判にさらされる。当時のGMではスーツは黒かグレーでシャツは白と定められるなど、保守的な雰囲気に満ちていた。見た目も行動も派手なデロリアンは、異端児として完全に浮き上がってしまう。

かつては高級車メーカーとして名をはせたパッカードだったが、デロリアンが入社した頃にはすでに斜陽の時代を迎えており、1958年にそのブランドは消滅することとなった。写真は1956年型「パッカード・クリッパー スーパー」。
かつては高級車メーカーとして名をはせたパッカードだったが、デロリアンが入社した頃にはすでに斜陽の時代を迎えており、1958年にそのブランドは消滅することとなった。写真は1956年型「パッカード・クリッパー スーパー」。拡大
かつてのポンティアックは「シボレーのやや上に位置する」というだけの地味なブランドだったが、デロリアンはこのイメージを刷新。ゼネラルマネジャーだったシーモン・クヌッセンとともに、このブランドをスポーティーなイメージに変貌(へんぼう)させた。
かつてのポンティアックは「シボレーのやや上に位置する」というだけの地味なブランドだったが、デロリアンはこのイメージを刷新。ゼネラルマネジャーだったシーモン・クヌッセンとともに、このブランドをスポーティーなイメージに変貌(へんぼう)させた。拡大
コンパクトカーの「テンペスト」をベースに、強力なエンジンを搭載した高性能モデル「GTO」は、後にマッスルカーブームの嚆矢(こうし)となった一台として数えられるようになった。写真は1968年のフルモデルチェンジで登場した2代目。
コンパクトカーの「テンペスト」をベースに、強力なエンジンを搭載した高性能モデル「GTO」は、後にマッスルカーブームの嚆矢(こうし)となった一台として数えられるようになった。写真は1968年のフルモデルチェンジで登場した2代目。拡大
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