運転席でうなだれた男

アルマはレイノルズの隣の部屋で暮らしているが、男女の関係ではない。間には、ドレスが介在している。美のインスピレーションだけが、ふたりを結びつけているのだ。心地よい緊張感の中で、端正な平衡状態が保たれている。イニシアチブを握るのはレイノルズで、アルマは彼のモチベーションを助けながら自らを高めていく。

完全無欠に見えた静的な関係性は、唐突に終わりの時を迎える。いつものようにブリストルで食事に出掛けた後、レイノルズは自分の部屋にアルマを招き入れた。

翌朝の食卓で、アルマはガリガリと音を立ててバターを削り、ドボドボとコーヒーを注ぐ。レイノルズはいら立ち、神経質に彼女を叱責(しっせき)する。謝るどころか、開き直って口答えするアルマ。彼女は最初から下品でがさつな所作を隠してはいなかったのだ。最初の食事の時、レイノルズはそれを優しい目で眺めていたではないか。

ふたりの間にほころびが見え始めても、ハウスの仕事は続く。ファッションショーのためのドレスを仕立てるには、アルマの存在が欠かせない。もはや彼女は受動的な立場ではなくなっている。均衡を保つには、レイノルズが変わるしかないのだ。

ファッションショーが終わると、レイノルズは精魂が尽き果てたような状態になる。メランコリーにとらわれたようで、生気が感じられない。ブリストルで出掛けようとしても、レイノルズは運転席でうなだれたままだ。「私が運転する」と申し出たアルマに対しても無言。席を入れ替わり、関係性の逆転が確定する。これ以降、スクリーンにブリストルが登場することはない。

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第171回:ブリストル405から降りる時、男はすべてを受け入れる『ファントム・スレッド』の画像拡大
 
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鈴木 真人

鈴木 真人

名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。

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