フェラーリのクラッチに不満を持つ

フェルッチョは、1948年にミッレミリアに挑戦したことがある。トッポリーノをベースに自作のOHVヘッドを組み込み、レーシングマシンを作ったのだ。トラクター製造に忙しかったが、夜は速いクルマ作りに情熱を傾けた。しかし、レースでは一緒に乗った若いドライバーがコーナーでクラッシュし、完走すらできなかった。フェルッチョはレースから遠ざかったが、スピードへの憧れは静かに心に秘めていたに違いない。

だから、高価なスポーツカーが完全ではないことに彼はいらだった。フェラーリのクラッチが弱くて何度も交換していたが、自分で修理しようと分解してみると、使われていたクラッチ板は自社のトラクター用と同じものだった。試しに純正のSOHCヘッドを自作のDOHCに交換してみたら、驚くほどスピードが上がった。フェルッチョが、自分でクルマを作ったほうがいいものが作れると考えたのは不思議ではない。

フェルッチョがエンツォ・フェラーリに会いに行き、邪険にされたことでリベンジのためにクルマを作ろうと思い立ったという説がある。チェントからモデナまでは50kmほどの距離。自らクラッチを買いに行ったのは確かなようだ。「200km/hまで加速してからギアをニュートラルに入れると滑らかに走る」と話し、ディファレンシャルギアがうるさいことを皮肉ったのも事実らしい。ただ、門前払いにされたというようなことはなく、怒りと対抗意識から事業を始めたというのは誇張かもしれない。

理由はともかく、1962年末にフェルッチョは会社の役員を集めて自動車産業への進出を宣言した。懐疑的な意見も出たが、走りだした彼はもう止まらない。マセラティの技術者ジャンパオロ・ダラーラ、フェラーリで「250GTO」を手がけたジオット・ビッザリーニを雇い入れた。フェルッチョは、V12エンジン、DOHC、6連キャブレターを用いるという指針を示し、世界最高のグラントゥーリズモを作るように指示する。デザインは、新進気鋭のフランコ・スカリオーネに委ねられた。

ミッレミリアはかつてイタリアで行われていた公道レースであり、走行距離が1000マイル(mille miglia)であることからその名で呼ばれていた。写真は1953年のレースにてチェッカーを受ける「フェラーリ340MMスパイダー」。
ミッレミリアはかつてイタリアで行われていた公道レースであり、走行距離が1000マイル(mille miglia)であることからその名で呼ばれていた。写真は1953年のレースにてチェッカーを受ける「フェラーリ340MMスパイダー」。拡大
フェラーリの創始者であるエンツォ・フェラーリ。フェルッチョが自動車事業への進出を目指したのは、エンツォに会いに行って邪険にされたから、という説がある。
フェラーリの創始者であるエンツォ・フェラーリ。フェルッチョが自動車事業への進出を目指したのは、エンツォに会いに行って邪険にされたから、という説がある。拡大
アウトモビリ・フェルッチョ・ランボルギーニ初の量産モデルとなった「350GT」の3.5リッターV12エンジン。当初からフェルッチョが望んでいた通り、DOHCや6連キャブレターといった、非常に高度なメカニズムが採用されていた。
アウトモビリ・フェルッチョ・ランボルギーニ初の量産モデルとなった「350GT」の3.5リッターV12エンジン。当初からフェルッチョが望んでいた通り、DOHCや6連キャブレターといった、非常に高度なメカニズムが採用されていた。拡大
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