失業対策事業の意味もあった道路建設

ナチスの政権が始まる前から、自動車専用道路の計画は始まっていた。1909年にプロイセンのハインリヒ皇太子が、ベルリンに自動車専用試験道路を作る計画を立てている。戦争で中断するが、1921年にベルリン・アヴェニューが開通した。この年、ドイツ道路建設連盟が設立されている。1924年になると民間で自動車道路建設研究会が結成され、翌年1万5000kmの自動車専用道路を建設するよう提案した。彼らは1927年に「ハフラバ計画」を提起する。ハンザ都市-フランクフルト-バーゼルを結ぶ道路の構想で、これが後にアウトバーン建設の基盤になった。

ナチス党は、もともと自動車専用道路には批判的だった。一部の特権階級のためのぜいたくであり、浪費だと考えたのだ。しかし、ヒトラーはアメリカでモータリゼーションが進んでいることを知り、危機感を抱いていた。1933年にナチスが政権を握った直後、ヒトラーはベルリン国際自動車展示会で演説を行う。標語は「モータリゼーションへの意志」で、自動車工業を発展させドイツ全土に道路網を建設することを約束した。5月になると全長7000kmの自動車道路建設計画を発表し、6月に道路制度総監という官職を新設する。9月23日にはアウトバーン建設がスタートし、式典ではヒトラー自ら鍬(くわ)入れ式を行った。

ナチスがアウトバーンの政策を転換した背景には、1929年の世界大恐慌がある。街にあふれていた失業者に仕事を与えることが最優先の課題となっていた。道路制度総監に就任したフリッツ・トットは、アウトバーン建設の意義を帝国の再建に求めた。国土開発とインフラ整備を同時に進め、60万人の雇用を創出することを目指す。総建設費の約6割を失業保険制度で賄っていることが、この事情を物語っている。ただ、実際には雇用創出効果は限定的で、1933年に生み出された雇用は4000人にすぎず、1936年に至っても12万2000人にとどまった。

ほかにもアウトバーン建設の意義はあった。軍事的には非常時に滑走路として使用することが検討されており、トンネルは航空機の隠し場所に転用できるとされた。都市と都市をつなぐ道路網の構築は精神的な意義も担っており、アウトバーンは国家建設と民族統一の象徴とみなされた。「ヒトラーの道路」は、新しい文化価値を創造する時代の記念碑というわけだ。1934年には広報誌『道路』が創刊される。5万部を月2回発行し、詩や小説、絵画、写真などで建設の意義を宣伝した。未来派の芸術家たちはスピードの美を称揚しており、アウトバーンに熱狂した。

ドイツの自動車専用道路であるアウトバーン。法定速度の設定がない速度無制限区間が設けられており、長距離を高速で移動することが可能となっている。
ドイツの自動車専用道路であるアウトバーン。法定速度の設定がない速度無制限区間が設けられており、長距離を高速で移動することが可能となっている。拡大
アウトバーンの着工式では、アドルフ・ヒトラーが自ら鍬(くわ)入れを行った。
アウトバーンの着工式では、アドルフ・ヒトラーが自ら鍬(くわ)入れを行った。拡大
アウトバーンの第1期工事はフランクフルト-ダムシュタットの区間で行われ、1935年5月19日に開通した。
アウトバーンの第1期工事はフランクフルト-ダムシュタットの区間で行われ、1935年5月19日に開通した。拡大
アウトバーンはメルセデス・ベンツとアウトウニオンによる最高速記録会の舞台ともなった。写真は、1939年2月9日にデッサウ-ビターフェルト間で行われた、メルセデス・ベンツの記録会の様子。車両はグランプリカーの「W154」をベースに空力ボディーを架装したレコードカーで、レーシングドライバーのルドルフ・カラチオラが運転した。
アウトバーンはメルセデス・ベンツとアウトウニオンによる最高速記録会の舞台ともなった。写真は、1939年2月9日にデッサウ-ビターフェルト間で行われた、メルセデス・ベンツの記録会の様子。車両はグランプリカーの「W154」をベースに空力ボディーを架装したレコードカーで、レーシングドライバーのルドルフ・カラチオラが運転した。拡大
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