国民車構想が見せた自家用車の夢

アウトバーンには、労働者の福利厚生としての位置づけも与えられていた。スローガンは「週末-歓喜力行団-フォルクスワーゲン」である。週末のドライブが労働者の保養として優れた効能を持つとされた。ドライブするためには、個人で自動車を保有しなければならない。アウトバーン計画と時を同じくして、ヒトラーは国民車構想を発表している。高性能で安価なクルマを普及させ、誰もがパーソナルモビリティーの恩恵にあずかれるという夢を見せたのだ。

国民車の開発はフェルディナント・ポルシェ博士に委ねられ、1938年にほぼ完成形となるプロトタイプが完成している。労働者は毎月5マルクずつ積み立てていくと、4年後に1台のクルマを手に入れることができることになっていた。しかし、その約束通りに完成車を受け取った者はいない。1939年に戦争が始まり、ナチス・ドイツは崩壊した。

実際に利用されることはなかったが、アウトバーンはドライブ道路として設計された。重視されたのは、景観パノラマである。道路制度総監のトットはクルマの中から見る風景を重視し、「時代精神を表現する、何千年も続く建築作品」を作ろうと考えた。異なる考えを持っていたのが、アルヴィン・ザイフェルトである。

彼は郷土保護運動出身で、1934年に景観代理人に任命されている。アウトバーンは技術と自然の融和がテーマとされていて、造園家たちが景観形成について助言する制度が設けられたのだ。トットとザイフェルトは協力関係にあったが、鋭く対立する場面も多かった。ザイフェルトは景観の修復・育成を重視しており、アウトバーン建設を通じてドイツの始原的な森の回復を図ることを提唱した。

ふたりはルート設定で激しく対立する。トットは7kmほどの直線を半径2kmの円弧でつなぐジグザグのコースを提案した。高速走行には直線道路が効率的であり、ドライバーにとっても運転が楽しくなると主張したのだ。ザイフェルトが強調したのは、景観との調和である。谷や丘が形成する自然の湾曲に従うことで、道路は芸術作品となる。生命体のリズムに合致するのは弧を描くルートであり、直線が長く続くのは安全性の面でも問題があると指摘した。

1937年に完成したプロトタイプ「VW30」(レプリカ)。30台の試作車によって徹底的な試験が行われた。
1937年に完成したプロトタイプ「VW30」(レプリカ)。30台の試作車によって徹底的な試験が行われた。拡大
1938年に完成した、最終生産モデルのプロトタイプ「VW38」。同年にはニーダーザクセン州に生産拠点となる工場も建てられ、生産開始も間近と思われた。しかし、1939年にドイツは第2次世界大戦に突入。“国民車”が国民の手に渡るのは、戦後になってからだった。
1938年に完成した、最終生産モデルのプロトタイプ「VW38」。同年にはニーダーザクセン州に生産拠点となる工場も建てられ、生産開始も間近と思われた。しかし、1939年にドイツは第2次世界大戦に突入。“国民車”が国民の手に渡るのは、戦後になってからだった。拡大
アウトバーンの設計に多大な影響を与えた、環境学者のアルヴィン・ザイフェルト。戦後も農学や環境学などの分野で活動を続け、1972年に没した。
アウトバーンの設計に多大な影響を与えた、環境学者のアルヴィン・ザイフェルト。戦後も農学や環境学などの分野で活動を続け、1972年に没した。拡大
1939年当時のアウトバーンの路線図。前年に併合したオーストリアの領内にも道が延ばされていたのが分かる。
1939年当時のアウトバーンの路線図。前年に併合したオーストリアの領内にも道が延ばされていたのが分かる。拡大
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