パークウェイ構想の頓挫とハイウェイの誕生

ザイフェルトが有利になった背景には、アメリカの動向がある。アメリカ政府が進めた研究は彼の主張を裏付けており、アウトバーンでも景観との調和を重視するルートが選択されることになった。しかし、当のアメリカでは少し違う経過をたどることになる。

アメリカ最古のパークウェイとされるブロンクス・リバー・パークウェイは、1907年に建設が始まっている。ゴミによる汚染を防止するためにブロンクス川委員会が設置され、川沿いに帯状に広がる緑地帯や公園の中に、レクリエーション用の自動車道路を通すことになったのだ。ルートは川の蛇行に合わせてゆるやかな曲線とし、道路を景観の中に溶け込ませた。対向車線との間には緑地帯が設けられ、両側には石段がある。トラックやバスの通行は禁止された。

計画は造園家を中心としたメンバーによって推進された。美しい道路は住民に好評で、通勤が便利になったことで不動産の価値も上がる。ブロンクス・リバー・パークウェイをモデルとした道が、ニューヨーク都市圏に広がっていった。1933年にアメリカ大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトが採用したニューディール政策の中で、アメリカ全土にパークウェイの建設が行われた。景観を重視した道路建設の方針が、ドイツにも影響を与えたのである。

しかし、パークウェイの方法論は、次第に軽視されるようになる。戦後になるとアイゼンハワー大統領が州間高速道路の構想を打ち出し、全長6万5000kmにも及ぶ道路を整備するプロジェクトが始まった。都市と都市を結ぶには、直線が最も効率的である。時代が必要としたのは、パークウェイではなくハイウェイなのだ。アメリカ全土で見られる単調な道路は、1956年から35年を費やして建設された。

日本でも、1930年代後半に自動車専用道路を作ろうという機運が生じており、1943年には内務省が全国自動車国道計画を策定している。総延長は5790kmで設計速度は最高で150km/hだった。しかし戦況の悪化にともない、翌年になって計画は打ち切られる。戦後、日本は産業の発展を目指したが、道路事情の劣悪さがしばしば障害となった。初の都市間高速道路である名神高速道路が開通したのは、1963年である。1964年に発売された3代目「トヨペット・コロナ」は、名神高速で連続10万km高速走行のデモンストレーションを行って高性能をアピールした。

東京では、1962年に首都高速の京橋―芝浦間が開通している。オリンピック開催を前に、道路の整備が求められていたのだ。それから50年以上が経過した現在、2020年に行われる2度目の東京オリンピックに向けて、各所で路線の拡充とともに大規模な修繕が行われている。

(文=webCG/イラスト=日野浦 剛/写真=FCA、首都高速道路、ゼネラルモーターズ、ダイムラー、フォード、フォルクスワーゲン、webCG)

ハイランドパーク工場のアッセンブリーラインを流れる、1000万台目の「T型フォード」(1924年)。T型フォードの誕生以来、アメリカでは急速にモータリゼーションが進み、自動車が本来の性能を発揮できる道路網の構築が待たれていた。
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ハイウェイの建設を強く推し進めたドワイト・D・アイゼンハワー大統領。大のクルマ好きとしても知られ、就任パレードにも伝統的なリムジンではなく、最新型のキャデラック・エルドラド コンバーチブルを使用した。
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日本初の都市間高速道路である名神高速道路(栗東-尼崎間)の開通は、1963年7月。日本にも高速道路時代が到来した。
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