窮地を救った藤澤武夫との出会い

技術的問題は解決できたが、エンジニアの力ではどうすることもできない事態が迫っていた。1941年に太平洋戦争が始まり、統制経済の中で自由な研究開発は禁じられた。東海精機は軍需省の指示でトヨタから40%の出資を受けることになり、宗一郎は社長を退任する。終戦で平和が訪れても、日本経済は崩壊していた。宗一郎が苦心して開発したピストンリングの需要は皆無だった。彼は会社の持ち株を45万円でトヨタに譲渡し、闇酒のどぶろくを作って飲むばかりの生活を送った。

再起してバタバタを作ったのは1年後である。先の45万円で本田技術研究所を設立し、バラックの工場に工作機械を入れた。陸軍が残したエンジンを買い集め、客の持ってきた自転車に取り付けた。エンジンの在庫はすぐ底をつき、宗一郎はオリジナルのエンジンを開発する。1947年に生産を開始した2ストロークのA型エンジンは、50ccで0.5馬力という性能でよく売れた。世界のホンダは、ここから始まったのだ。

1949年に、3馬力のD型エンジンを搭載した本格的な二輪車「ドリーム号」を発売したが、売れ行き不振で資金繰りが悪化する。追い込まれたホンダに入社して危機を救ったのが、藤澤武夫だった。この後、“経営の藤澤”と“技術の本田”のコンビで会社を成長させていくことになる。銀行との交渉や販売店の拡大にたぐいまれな能力を示した藤澤のおかげで、宗一郎は技術開発に専念することができた。

OHVエンジンを載せた「ドリームE型」がヒットし、カブF型エンジンが成功したことで、ホンダは日本最大のオートバイメーカーになった。1958年には「スーパーカブ」が発売されて世界を席巻し、1959年にはオートバイレースの最高峰たるマン島TTレースに参戦する。わずか3年でチャンピオンとなり、名実ともに世界のトップメーカーに踊り出た。それでも本田宗一郎は満足していなかった。

「日本の機械工業の真価を問い、此れを全世界に誇示するまでにしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある」

TTレース出場に際し、1954年に彼は社員を奮い立たせるべくこう宣言した。そして、その目標を達成するためには、最終的に四輪車の世界でもトップを奪取する必要があると考えていた。

本田宗一郎設計のA型エンジンを搭載したエンジン付き自転車(1947年3月)。
本田宗一郎設計のA型エンジンを搭載したエンジン付き自転車(1947年3月)。拡大
「ドリームD型」(1949年8月)
「ドリームD型」(1949年8月)拡大
財務面や営業面でホンダを支えた藤澤武夫(1910-1988)。
財務面や営業面でホンダを支えた藤澤武夫(1910-1988)。拡大
「スーパーカブ」は今日でも生産が続けられており、2017年10月には累計生産台数が1億台を突破している。写真は最初期モデルの「スーパーカブC100」(1958年8月)。
「スーパーカブ」は今日でも生産が続けられており、2017年10月には累計生産台数が1億台を突破している。写真は最初期モデルの「スーパーカブC100」(1958年8月)。拡大
ホンダはマン島TTレースにおいて、参戦初年度の1959年にメーカーチーム賞を獲得。1961年には125ccクラス、250ccクラスともに1~5位を独占する完全勝利を収めた。写真は250ccクラスで4位に入った日本人ライダーの高橋国光。
ホンダはマン島TTレースにおいて、参戦初年度の1959年にメーカーチーム賞を獲得。1961年には125ccクラス、250ccクラスともに1~5位を独占する完全勝利を収めた。写真は250ccクラスで4位に入った日本人ライダーの高橋国光。拡大
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