空冷エンジンの成功と失敗

ただ、Sシリーズは2シーターのスポーツカーであり、販売台数は合計2万5000台ほどにすぎない。ホンダを量産メーカーに押し上げたのは、1967年に発売した軽乗用車の「N360」である。大衆向けのファミリーカーで、Sシリーズとはまったく異なるメカニズムを採用している。エンジンは4ストロークの空冷2気筒SOHCで、駆動方式はFFだった。他メーカーの多くが2ストロークエンジンだったのに対し、違うアプローチをとったのである。高回転型で31馬力を絞り出し、20馬力台前半だったライバル車を圧倒した。価格も安く設定し、発売2カ月で販売台数の首位に躍り出て、3カ月後には予約累計が2万5000台に達した。ライトバンの「LN360」やトラックの「TN360」という派生モデルも生み出し、累計生産台数は約70万台に及んだ。

N360は、二輪車で培った空冷エンジンの技術を生かして作られた合理的なクルマである。シンプルでコストのかからない空冷エンジンは、宗一郎にとって理想のクルマを作るのに欠かせない要素だった。新たに取り組んだ小型乗用車にも、この思想は受け継がれる。1969年、意欲的な技術を盛り込んだ「ホンダ1300」を発売する。

FFで四輪独立懸架を採用しており、エンジンは1.3リッターのオールアルミ製。4連キャブレター仕様では115馬力という高出力を誇った。一体構造二重壁空冷という複雑なメカニズムを持った画期的なエンジンである。満を持して市場に投入したが、結果は惨敗だった。振動と騒音が大きい空冷エンジン車は、クルマに洗練を求めるようになっていた当時のユーザーからそっぽを向かれたのだ。

F1に投入した空冷エンジンのマシンも不振を極めたが、宗一郎は空冷こそが理想のエンジンであるという考えを曲げなかった。市販車もF1も、あくまで空冷エンジンを改良することで状況を打開するように指示したのである。

若手エンジニアたちは、空冷エンジンはもはや古臭い技術で、未来がないと考えていた。排ガスによる大気汚染が問題となっていて、一酸化炭素(CO)や窒素酸化物(NOx)を低減することが喫緊の課題となっていた。冷却のコントロールが難しい空冷エンジンでは、排ガス規制をクリアすることができないというのが、若手エンジニアたちの共通認識だったのである。

水冷への移行を強硬に主張したのは、後に3代目社長に就任することになる久米是志である。宗一郎の一番弟子ともいえる河島喜好(2代目社長)も、空冷エンジンに反対した。

ファミリー向け軽乗用車の「N360」(1967年3月)。二輪で培ったエンジンの高い性能と、広い車内空間により、日本の軽乗用車の水準を大きく引き上げる存在となった。
ファミリー向け軽乗用車の「N360」(1967年3月)。二輪で培ったエンジンの高い性能と、広い車内空間により、日本の軽乗用車の水準を大きく引き上げる存在となった。拡大
大ヒットとなった「N360」にはさまざまな派生モデルが登場した。写真はライトバンタイプの「LN360」。
大ヒットとなった「N360」にはさまざまな派生モデルが登場した。写真はライトバンタイプの「LN360」。拡大
本格的な乗用車メーカーとなるべく、ホンダが肝いりで投入した小型乗用車の「1300」(1969年4月)だが、販売的には芳しい結果を残せなかった。
本格的な乗用車メーカーとなるべく、ホンダが肝いりで投入した小型乗用車の「1300」(1969年4月)だが、販売的には芳しい結果を残せなかった。拡大
「1300クーペ 7 GL」(1970年2月)。動力性能では高いパフォーマンスを示した「ホンダ1300」だが、振動や騒音の大きさがネックとなっていた。
「1300クーペ 7 GL」(1970年2月)。動力性能では高いパフォーマンスを示した「ホンダ1300」だが、振動や騒音の大きさがネックとなっていた。拡大
水冷エンジンの優位性を主張し、本田宗一郎と対立した久米是志(左)と河島喜好(右)。ともに、後に本田技研工業の社長を務めることとなった。
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