意見が対立した若手に将来を託す

ついに副社長の藤澤武夫が動く。彼は宗一郎が開発を主導することが会社の発展に結びつくと考えていたが、今やその体制はむしろ新しい技術開発の妨げになっている。

藤澤は、刺し違え覚悟で宗一郎に面談した。若手エンジニアの危機感を説明し、公害対策のために水冷を採用するよう説得したのだ。宗一郎は自説を曲げなかったが、水冷のほうが開発を早めることができることは認め、若手に今後を委ねることに同意した。宗一郎と藤澤は、4人の専務に会社の将来を託すことを決断する。ふたりとも本社にはほとんど顔を出さなくなり、世代交代への準備を進めた。

1970年、アメリカでマスキー法が成立した。自動車に厳しい排ガス規制を課す法律である。ビッグスリーは反対運動を繰り広げたが、ホンダはむしろチャンスととらえた。CO、HC、NOxを同時に減らすという困難な課題をクリアすれば、自動車技術の最先端に踊り出ることになる。開発を進めたのは、久米、川本信彦(4代目社長)、吉野浩行(5代目社長)らだった。1972年にホンダはCVCCエンジンを発表する。アメリカでのテストでも規制値を下回り、CVCCはマスキー法に対応した初めてのエンジンとなった。この機構を搭載した「シビック」は大ヒットし、1973年のカー・オブ・ザ・イヤーに選出される。若手エンジニアたちは、ホンダの屋台骨を背負って立つ力を蓄えていたのである。

1973年、宗一郎は社長を退任し、藤澤も同時に副社長の職を辞した。ふたりは会長や相談役にもならず、最高顧問という象徴的な肩書だけを受け取った。宗一郎の指名で社長に就任した河島は、45歳の若さだった。ホンダの将来は、名実ともに次世代に託されたのだ。エンジンの開発で対立したエンジニアたちが、宗一郎の理想を引き継いだ。

「人に渡す時、これは肝心だな。人に渡すのにケチケチするのは私は嫌いだ。モタモタしてたんじゃ、みっともなくてしようがねェ」
引退直後の宗一郎の言葉である。

(文=webCG/イラスト=日野浦 剛/写真=本田技研工業)

 

「1300」の後継モデル「145」に搭載された1433ccの水冷4気筒OHCエンジン。一足早くデビューしていた「シビック」のエンジンをベースに、排気量をアップしたものだ。1300での失敗を踏まえ、ホンダも空冷エンジンを随時水冷エンジンに置き換えていった。
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CVCCエンジンを搭載した「シビックCVCC DX」(1973年12月)。写真は量産第1号車である。
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CVCCエンジンは、吸気バルブとインジェクターの備わる副燃焼室で発生した火種を着火に用いることで、それまでのエンジンでは不可能だったリーンバーンを実現していた。
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ホンダの歴史を紹介する博物館「ホンダコレクションホール」のエントランスを飾るオブジェには、本田宗一郎の直筆による「夢」の文字が刻まれている。
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