華々しい戦績を挙げた「アルファ・ロメオP2」

合併によってメルセデス・ベンツとなったチームでは、ポルシェが開発した6.8リッターエンジンを搭載したマシンが活躍する。「ホワイトエレファント」と呼ばれた「S」で、名ドライバーのルドルフ・カラチオラによって数々の勝利を得た。1928年には7リッターの「SS」と「SSK」も登場するが、ポルシェ博士はこの年でダイムラー・ベンツ社を去った。

グランプリを含むヨーロッパのレースでは、アルファ・ロメオとマセラティが勢力を伸ばしていた。アルファ・ロメオではヴィットリオ・ヤーノが設計した「P2」が華々しい戦績を挙げ、マセラティの「ティーポ26」も高い戦闘力を誇った。ブガッティも「タイプ35B」「タイプ51」でグランプリの最前線に躍り出た。

1931年から1933年のグランプリレースは、車重や排気量に制限のないフリーフォーミュラとなる。7リッターエンジンの重量級メルセデスと2リッターエンジンのアルファ・ロメオが同じレースで走ったこともあった。そんな中、アルファ・ロメオは1932年に「P3」を投入する。2654ccのエンジンは最高出力215馬力を発生し、軽量なボディーのおかげで優れた操縦性も備えていた。

1934年からは、さらに新しいレギュレーションが適用されることになった。排気量は無制限だが、車重は750kg以下、ボディーの幅は85cm以下とされた。アルファ・ロメオP3やブガッティ・タイプ51は、この規定内に収まっている。大きくて重いメルセデスのSSKは出走不可能で、新しいマシンを開発する必要に迫られた。

750kgという車重は、当時の大型スポーツカーの約半分である。重量制限によって排気量は2.5リッター程度に抑えられると主催者は考えていた。マシンの性能が上がって最高速度が240km/hに達するようになり、パワー競争を放置すれば重大な事故が起こりかねない。スピード抑制のために策定されたレギュレーションだったが、思惑は外れた。技術の進歩は主催者の見通しをはるかに上回っていたのだ。

1928年7月15日にニュルブルクリンクで開かれたドイツグランプリの様子。フェルディナンド・ポルシェ(前列左)やルドルフ・カラチオラ(後列右から3番目)、アルフレッド・ノイバウアー(後列右)らが写っている。
1928年7月15日にニュルブルクリンクで開かれたドイツグランプリの様子。フェルディナンド・ポルシェ(前列左)やルドルフ・カラチオラ(後列右から3番目)、アルフレッド・ノイバウアー(後列右)らが写っている。拡大
鬼才ヴィットリオ・ヤーノがアルファ・ロメオで初めて手がけたレーシングカー「P2」。デビューレースでいきなり優勝を果たし、1920年代のアルファ・ロメオ黄金時代を支えた。
鬼才ヴィットリオ・ヤーノがアルファ・ロメオで初めて手がけたレーシングカー「P2」。デビューレースでいきなり優勝を果たし、1920年代のアルファ・ロメオ黄金時代を支えた。拡大
高い運動性能を武器にアルファ・ロメオとしのぎを削ったブガッティの「タイプ35」シリーズ。「35B」はスーパーチャージャーを搭載した高性能モデルで、1924年から1930年まで造られた。
高い運動性能を武器にアルファ・ロメオとしのぎを削ったブガッティの「タイプ35」シリーズ。「35B」はスーパーチャージャーを搭載した高性能モデルで、1924年から1930年まで造られた。拡大
「タイプ35」の後継モデルとしてブガッティが投入した「タイプ51」。
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