奇想天外な方法で1kg軽量化

窮地に陥ったチーム監督のアルフレッド・ノイバウアーは、奇想天外な方法を思いつく。塗装をすべて剝ぎ取れば、1kgの軽量化が可能だと考えたのだ。当時のレーシングカーはナショナルカラーに塗られており、ドイツ車は真っ白なボディーカラーだった。メカニックたちは徹夜で塗装を落とし、朝になってもう一度計量すると針はぴったり750kgを示した。

レースではそれまでのコースレコードを更新し、圧倒的な走りで優勝。銀色に輝くボディーは強い印象を残し、メルセデス・ベンツのマシンには「シルバーアロー」の異名が付けられた。

このレースで2位に入ったのは、ポルシェ博士が設計した「アウトウニオンPヴァーゲン」だった。295馬力の4358cc V16エンジンを搭載するマシンである。メルセデス・ベンツとアウトウニオンが飛び抜けた性能を誇り、グランプリは2強が激突する展開となる。アウトウニオンもシルバーのボディーカラーを採用し、「シルバーフィッシュ」と呼ばれるようになった。

ダイムラー・ベンツのエンジニアは休むことなくW25に改良を加え、性能は飛躍的に向上していく。750kgフォーミュラ最後となった1937年には、新マシンの「W125」が投入された。レギュレーションの中で最高の性能を引き出した完成形である。エンジンの排気量は5660ccまで拡大され、最高出力は646馬力となっていた。最高速度は350km/hを優に超えていたといわれる。

ヒトラーがドイツ勢の進撃をゲルマン民族の優位性の宣伝に利用したのは事実である。ただ、それは一概にダイムラー・ベンツやアウトウニオンがナチスのために働いたことを意味するわけではない。彼らは政権からの補助金をはるかにしのぐ巨額の資金をレースに注ぎ込んでいた。

ダイムラー・ベンツが初年度に用意したのは250万マルクで、その後も毎年それ以上の額がチームのために費やされる。グランプリに勝利して技術力を証明することがエンジニアの願いだった。不幸にも第2次世界大戦でグランプリは終了するが、スキルとノウハウは継承される。ドイツの自動車産業が戦後目覚ましい復活を遂げることができたのは、グランプリで培われた技術のおかげなのだ。

(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)

1kgの軽量化を図るために塗装が剥ぎ取られた「メルセデス・ベンツW25」。後にグランプリを席巻した銀色のマシンは、「シルバーアロー」と呼ばれた。
1kgの軽量化を図るために塗装が剥ぎ取られた「メルセデス・ベンツW25」。後にグランプリを席巻した銀色のマシンは、「シルバーアロー」と呼ばれた。拡大
長年にわたりダイムラー・ベンツのレーシングチームを指揮したアルフレッド・ノイバウアー(左)。レース中、ドライバーとの意思疎通を図るため、ピットサインを考案したことでも知られる。写真は1938年のもの。
長年にわたりダイムラー・ベンツのレーシングチームを指揮したアルフレッド・ノイバウアー(左)。レース中、ドライバーとの意思疎通を図るため、ピットサインを考案したことでも知られる。写真は1938年のもの。拡大
「タイプA」から「タイプD」までつくられた「アウトウニオンPヴァーゲン」。ミドシップのエンジンレイアウトが特徴で、「シルバーフィッシュ」とも、メルセデス・ベンツともども「シルバーアロー」とも呼ばれた。写真は1394年の「タイプA」。
「タイプA」から「タイプD」までつくられた「アウトウニオンPヴァーゲン」。ミドシップのエンジンレイアウトが特徴で、「シルバーフィッシュ」とも、メルセデス・ベンツともども「シルバーアロー」とも呼ばれた。写真は1394年の「タイプA」。拡大
1937年のスイスグランプリにて、白熱したレースを繰り広げる「メルセデス・ベンツW125」と「アウトウニオン・タイプC」。ダイムラー・ベンツとアウトウニオンの戦いは、第2次世界大戦がぼっ発する1939年まで続いた。
1937年のスイスグランプリにて、白熱したレースを繰り広げる「メルセデス・ベンツW125」と「アウトウニオン・タイプC」。ダイムラー・ベンツとアウトウニオンの戦いは、第2次世界大戦がぼっ発する1939年まで続いた。拡大
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