“道楽”と称して自動車研究を始める

喜一郎は、アメリカ車に対抗できる国産乗用車をつくることを決意した。しかし豊田自動織機製作所には自動車をつくる技術も設備もない。しかも、喜一郎は長男ではあるが、会社の社長は10歳年上の義兄・利三郎である。喜一郎が根っからの技術者なのに対し、利三郎は実業畑の人で、国産車をつくりたいなどという夢のような話をそのまま受け入れるはずがなかった。実際、彼は喜一郎に理解を示しつつも、無謀な事業化にはくぎを刺した。自動車製造は、豊田自動織機製作所が取り組むには危険すぎる大事業なのだ。

それでも喜一郎は着々と準備を進めていった。まずは“道楽”と称して、4馬力の小型エンジンを組み立てた。1933年には工場の倉庫の中に板囲いをつくり、33年型のシボレーを持ち込んで分解と組み立てを繰り返すようになる。生産に必要となる高価な工作機械を次々と発注予定表に書き込み、いずれ必要となるだろう工場用地としては、名古屋の西にある挙母町論地ヶ原(現在の豊田市)に目をつけた。

この年の12月30日、喜一郎の要請で豊田自動織機製作所の緊急取締役会が開かれた。議題は、自動車部の正式な開設と増資である。この取締役会を経て、ついに会社の定款に自動車関連の業務が加えられることになった。増資は200万円である。今で言えば数百億円に匹敵する、巨額な投資だった。

当時の日本の自動車産業を俯瞰(ふかん)すると、1925年に白楊社が「オートモ号」を製作。1930年にはダット自動車製造が小型乗用車を試作し、翌1931年に川真田和汪が「ローランド号」(写真)を、東洋コルク工業(現マツダ)が三輪トラックを製作している。日本各地で、日本人の手によるクルマづくりの機運が高まりを見せていた。
当時の日本の自動車産業を俯瞰(ふかん)すると、1925年に白楊社が「オートモ号」を製作。1930年にはダット自動車製造が小型乗用車を試作し、翌1931年に川真田和汪が「ローランド号」(写真)を、東洋コルク工業(現マツダ)が三輪トラックを製作している。日本各地で、日本人の手によるクルマづくりの機運が高まりを見せていた。拡大
自動車事業への参入に際し、豊田喜一郎はまず試作工場を建てて「A1型」や「G1型」の試作に着手。次いで刈谷に自動車組立工場を建設し、自動車製造事業法による許可会社の指定を受けた後、かねて考えていた本格的な自動車量産工場、すなわち挙母工場の建設計画に着手した。写真は1938年の、完成当時の挙母工場。
自動車事業への参入に際し、豊田喜一郎はまず試作工場を建てて「A1型」や「G1型」の試作に着手。次いで刈谷に自動車組立工場を建設し、自動車製造事業法による許可会社の指定を受けた後、かねて考えていた本格的な自動車量産工場、すなわち挙母工場の建設計画に着手した。写真は1938年の、完成当時の挙母工場。拡大
あなたにおすすめの記事
新着記事