1年半で試作車をつくる

1934年1月の株主総会で、豊田自動織機製作所の自動車事業進出が正式決定されると、豊田喜一郎は技術者を集めて「年内に試作第1号車を完成させる」と宣言した。自動車開発部門のメンバーだった大島理三郎取締役が米国に渡り、ボーリングマシンやプレス機などを買い付けるとともに、最新式の自動車を持ち帰った。クライスラーの「デソート・エアフロー」である。

メカニズムについては、喜一郎は東京大学の同窓生で、同大学の教授になっていた隈部一雄と相談しながら概要を決めていった。エンジンはGMに学び、シャシーはフォードを範とする。デザインはクライスラーのものを取り入れるのだから、アメリカのビッグスリーのいいとこ取りをしようというのだ。トヨタ初の自動車となるべきクルマは、「A1型乗用車」と名付けられた。

開発は順風満帆とはいかなかった。エンジンのシリンダーブロックをつくるには、鋳造の技術が必要となる。自動織機の製造で鋳造の経験は積んでいたが、やってみるとまったく勝手が違った。織機とは比べものにならないほど構造が複雑で、不良品が続出。大島取締役が米国から持ち帰った油中子を参考に試行錯誤を繰り返した結果、ようやく8月にシリンダーブロックが完成する。試作第1号のエンジンが組み上がったのは9月だった。

問題は続いた。試作エンジンをトラックに搭載してみたところ、パワーが足りないのだ。手本にした3.4リッター6気筒のシボレー製エンジンは60馬力なのに、試作品のパワーは48~49馬力しか出なかった。新しい形状のシリンダーヘッドを設計し、なんとか65馬力を実現。試作第1号車が完成したのは5月のことだった。結局、当初の予定はオーバーしたものの、喜一郎らはほとんどゼロの状態から1年半で自動車をつくったのだ。

とはいえ、状況は逼迫(ひっぱく)していた。すでに自動車部は500万円を超える資金を費やしている。それでも製品の自動車は1台もないのだから、利益はゼロ。早く自動車を販売して資金を回収しなくては、とても会社がもたない。

クライスラーが1934年に市場投入した「エアフロー」。空気抵抗の低減を意図したボディー形状が特徴で、クライスラーとデソートの両ブランドからデビューした。
クライスラーが1934年に市場投入した「エアフロー」。空気抵抗の低減を意図したボディー形状が特徴で、クライスラーとデソートの両ブランドからデビューした。拡大
シボレーの「インターナショナル」シリーズに搭載された直列6気筒OHVエンジン(1929年)。エンジンの部品製造や組み立てには高度な技術が要求され、開発メンバーは試行錯誤を繰り返した。
シボレーの「インターナショナル」シリーズに搭載された直列6気筒OHVエンジン(1929年)。エンジンの部品製造や組み立てには高度な技術が要求され、開発メンバーは試行錯誤を繰り返した。拡大
「トヨダAA型」や「G1型トラック」などに搭載された「A型エンジン」。シボレーのそれを範とした3.4リッター直列6気筒OHVで、65馬力の最高出力を発生した。
「トヨダAA型」や「G1型トラック」などに搭載された「A型エンジン」。シボレーのそれを範とした3.4リッター直列6気筒OHVで、65馬力の最高出力を発生した。拡大
「トヨダA1型試作乗用車」完成式の様子。豊田喜一郎は自動車事業進出の決定からわずか1年半で試作車を完成させた。
「トヨダA1型試作乗用車」完成式の様子。豊田喜一郎は自動車事業進出の決定からわずか1年半で試作車を完成させた。拡大
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