焼け跡からの出発

1945年8月15日、喜一郎は東京・世田谷の自宅で玉音放送を聞いた。日米の工業力の差から日本が負けることを予期していた彼は、敗戦に驚くことはなかった。挙母の工場は爆撃の被害に遭っていたが、これで自由に自動車をつくることができる。彼の頭の中では、すでに新しい量産小型乗用車の構想が膨らんでいた。

喜一郎は国産乗用車づくりの夢に、再び取り組もうとしていた。挙母工場に帰ってくると、いとこの豊田英二を呼んで量産小型乗用車の研究を始めるよう指示。戦争が終わったのだから、これからは大衆に自動車が普及していくことになる。しかし、挙母工場は爆撃を受けて半壊状態。動員を受けてトラック生産に携わっていた人々の中には退社するものも多く、9500人ほどいた従業員は秋までに3700人に減っていた。

さらに1945年9月25日、進駐軍は「製造工業操業に関する覚書」を発令して乗用車の生産を禁止。11月には財閥解体に着手し、その難を免れたトヨタも、さまざまな制約を課せられることとなった。それでも喜一郎は乗用車の開発を諦めなかった。まずは、1リッター4気筒のサイドバルブ式エンジンの開発を進めるよう指示を出す。このエンジンはS型と名付けられ、多くのモデルに搭載されることになる。

販売網の再建も急務だった。戦争中は自動車の販売が統制され、配給会社を通じて売るしかなかったのだ。トヨタの販売部門のトップにいた神谷正太郎はいち早く動く。戦時中に全国の共販会社を訪ね歩いて築いた人脈を生かし、自由販売への体制を整えた。

1947年6月、GHQは乗用車の生産再開を許可する。10月には小型乗用車の生産・販売を開始。S型エンジンを搭載した第1号車ということで「SA型」と名付けられ、「トヨペット」という愛称も付けられていた。SA型に先駆け、「SB型トラック」の生産も始まっていた。1000kgの積載能力を持つSB型は人気を博し、1952年2月までに約1万3000台が出荷される。

SB型は従来どおりのはしご型フレームだったが、SA型乗用車は当時としては画期的なバックボーンフレームを採用していた。室内スペースを大きくとることが可能になり、デザインは流線形。サスペンションは四輪独立懸架で、A1型と比べるとはるかに先進的な機構を持った意欲作だった。

神谷正太郎は、1935年に日本GMから引き抜かれて豊田自動織機製作所に入社。戦前の販売網構築と、戦後の販売網再生の両方で腕をふるい、1950年の工販分離に際しては、トヨタ自動車販売の社長に就任している。
神谷正太郎は、1935年に日本GMから引き抜かれて豊田自動織機製作所に入社。戦前の販売網構築と、戦後の販売網再生の両方で腕をふるい、1950年の工販分離に際しては、トヨタ自動車販売の社長に就任している。拡大
1947年に発売された「トヨペットSA型」。先進的なつくりのボディーに1リッターの4気筒エンジンを搭載した意欲的なモデルだったが、オーナーカーを世に問うにはまだ早く、商業的にはいまひとつの結果となった。(写真は1951年型)
1947年に発売された「トヨペットSA型」。先進的なつくりのボディーに1リッターの4気筒エンジンを搭載した意欲的なモデルだったが、オーナーカーを世に問うにはまだ早く、商業的にはいまひとつの結果となった。(写真は1951年型)拡大
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