喜一郎の夢がつくった純国産乗用車

SA型の性能を広く知らしめたのは、名古屋・大阪間を急行列車と競走したイベントである。1948年8月7日、朝4時37分発の下り列車が名古屋駅を動き出すと同時に、SA型が線路と並行する道路を走りだした。SA型が大阪駅に到着したのは、8時37分だった。急行列車の到着予定時刻は9時23分で、46分の差をつけての圧勝だった。SA型は235kmの行程を、平均車速60km/hで走破したのである。

しかし、会社をめぐる状況は厳しさを増しつつあった。戦後の復興景気で悪性インフレが発生し、政府は金融引き締めに動く。1949年には、いわゆるドッジ・ラインが実施された。各種補助金を削減し、復興金融公庫の融資を停止する。1ドル360円という公定為替レートを定め、政府予算には超均衡編成を求めるというものだった。インフレは収束していったが、代わりに“ドッジ不況”が猛威をふるう。1949年9月にいすゞが約1300人、続いて10月には日産が約1800人の解雇を発表した。

トヨタでは、1949年12月に2億円もの資金不足が明らかになる。銀行から融資を断られ、喜一郎は窮地に立たされた。日銀の仲介により協調融資団が結成され、ギリギリで破綻は回避されたが、銀行は目に見える形での改革を求めた。協調融資団は、販売部門を切り離し、製造部門は売れるだけの台数を生産する仕組みをつくるように要求。さらに人員整理を強硬に申し入れる。家族経営を旨とする喜一郎は頑強に抵抗したが、人を減らすことなしには危機を打開できなかった。翌年6月に組合は人員整理を受け入れ、喜一郎は辞任を発表した。

代わりに豊田自動織機製作所社長の石田退三が社長に就任すると、トヨタに追い風が吹く。朝鮮戦争が始まり、米軍からトラックの注文が殺到したのだ。業績はV字回復し、1951年3月の決算では約2億5000万円の純利益をあげるに至った。

喜一郎は新たな研究に取り組んでいた。小型乗用車とヘリコプターの開発に向け、準備を進めていたのだ。経営の苦労から解放され、エンジニアとしての意欲がよみがえったのだろう。会社再建を果たした石田は、喜一郎に社長復帰を要請。最初は拒絶した喜一郎だったが、度重なる説得に復帰を承諾する。1952年7月に行われる予定の株主総会で承認される運びとなったが、その日は訪れなかった。3月27日、喜一郎は57年の生涯を閉じた。

1955年、「トヨペット・クラウン」が発表される。純国産乗用車と胸を張って言えるクルマがついに誕生し、喜一郎が夢見た未来はようやく現実となった。すべては、一人の男の決意から始まったのだ。

(文=webCG/イラスト=日野浦剛)

「トヨペットSA型」の実力を訴求すべく、トヨタは1948年に急行列車との競走というイベントを実施。見事に勝利してみせた。
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トヨタは1947年に累計生産10万台を達成。順調に復興を遂げつつあると思われたが、1949年のドッジ不況により窮地に立たされた。
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トヨタ自動車販売の設立当時の本社屋。銀行からの要求を受け、トヨタは販売部門を分社化。この体制は1982年まで続いた。
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1950年には、石田退三がトヨタ自動車工業の社長に就くのと時を同じくして朝鮮戦争がぼっ発。米軍からの大量のトラック発注がトヨタを復活させた。
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1955年に誕生した初代「トヨペット・クラウン」。戦後、他の日本メーカーが欧米メーカーとの提携によって技術力の向上を図る中、トヨタは自力での国産乗用車の開発にこだわり続けた。その取り組みは、クラウンによって大成することとなる。
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