社内抗争に敗れても

筆者が、時系列を追うように、同時代に「引き際」とその前後を観察できた人物としては、フィアットのヴィットリオ・ギデッラ氏(1931年-2011年)がいる。

トリノの北、ヴェルチェッリで生まれたギデッラ氏はトリノ工科大学を卒業後、ベアリング製造で有名なSKFに入社。のちに社長にまで上り詰めたが、その座を捨てて米国に渡り、フィアットの農機会社で働く。

やがて1978年、フィアット創業家のジョヴァンニ・アニエッリの目にとまったことで、トリノに復帰。翌79年に当時不振だった乗用車部門の責任者となる。

ギデッラ氏のもとで、1980年代のフィアットは「ウーノ」「クロマ」「ランチア・テーマ」など、ヒット作を連発する。

またギデッラ氏は1987年のアルファ・ロメオ買収にも携わった。筆者が東京で自動車誌の記者時代に上司から聞いた話によると、さまざまな外国人ジャーナリスト一人ひとりの国籍に合わせ、ギデッラ氏は各国語で、それも極めて流暢(ちょう)に質問に答えていたという。

アニエッリからも次期社長と目された彼であったが、社内抗争で財務畑出身のチェーザレ・ロミティ氏に破れた。1988年にフィアットをあとにした彼は、スイスのルガーノに移り、サプライヤーのザウラーで社長を務める。そして1993年に引退したあと、そのまま同地で息を引き取った。

ギデッラ氏が去ったあと、ロミティ氏が仕切るようになったフィアットでは、市場ニーズに合った魅力ある製品開発よりもグループの金融オペレーションが優先された。結果としてイタリア人ユーザーからも次第に見放され、2000年代の危機に陥る。

ギデッラ氏の場合、やや残念な引き際であったが、イタリアのメディアで彼は晩年になっても、時折「あの人は今」的に報じられていた。また、「ギデッラ時代のフィアット」というのも、イタリア経済をポジティブに回顧する文章で、たびたび接する表現である。彼のもとでつくられた製品群が、あまりにも輝いていたのだ。

そうしたフィアット車が好きだった筆者としては、もしギデッラ氏が会社にとどまっていたら、どのような魅力的なモデルがさらにリリースされただろうと、時折思いをはせる。そう考えられる数少ない自動車マンである。

1983年「フィアット・ウーノ」。
1983年「フィアット・ウーノ」。拡大
1985年「フィアット・クロマ」。
1985年「フィアット・クロマ」。拡大
1984年「ランチア・テーマ2.0i.e.」。
1984年「ランチア・テーマ2.0i.e.」。拡大
大矢 アキオ

大矢 アキオ

コラムニスト。国立音楽大学ヴァイオリン専攻卒にして、二玄社『SUPER CG』元編集記者、そしてイタリア在住21年と脈絡なき人生を歩んできたものの、おかげで妙に顔が広い。今日、日本を代表するイタリア文化コメンテーターとして執筆活動に携わると共に、NHKラジオフランス語テキストでも活躍中。10年以上にわたるNHK『ラジオ深夜便』レギュラーリポーター、FM横浜『ザ・モーターウィークリー』季節ゲストなど、ラジオでも奮闘している。『Hotするイタリア』『イタリア発シアワセの秘密 ― 笑って! 愛して! トスカーナの平日』(ともに二玄社)、『カンティーナを巡る冒険旅行』『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(ともに光人社)、電子書籍『イタリア式クルマ生活術』(NRMパブリッシング)、『メトロとトランでパリめぐり】(コスミック出版)など数々の著書・訳書あり。

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