あまたの死を目にしたスチュワートの決意

F1は転換期を迎えていた。コスワースDFVが汎用(はんよう)エンジンとして普及し、小規模なチームでも参戦できる環境が整う。スポンサー契約が解禁されてビッグマネーが流れ込むようになり、商業的成功の基盤が築かれていった。クラークが亡くなった1968年は、彼のチームメイトであるヒルがドライバーズタイトルを手にし、コンストラクターズタイトルも「ゴールド・リーフ・カラー」のロータスのものとなった。

時代はさらに先に進む。ロータスではヨッヘン・リントが力をつけ、ヒルを脅かすようになる。ケン・ティレルのチームでは、ジャッキー・スチュワートが速さを見せつけるようになっていた。彼はスコットランド人で、クラークの持っていた“フライング・スコット”の名を継ぐことになる。

スチュワートは1969年、1971年にチャンピオンとなる。1973年にも5勝を挙げて3度目のタイトルを決めたが、通算100戦目となる最終戦アメリカGPでは、決勝を走らず、F1から引退した。予選でチームメイトのフランソワ・セベールが事故死したことに衝撃を受けたのだ。

同郷の先輩クラークの死を経験し、1970年にはリントがイタリアGPで事故死するのを目の当たりにしていた。スチュワートは現役を退いてから、新たな使命を自らに課す。危険なレースを根絶するための活動である。多くの偉大なドライバーの死を乗り越え、F1では、現在もレースを安全なものにするための努力が続けられている。

(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)

ロータスは、1968年のスペインGPからマシンの外装にインペリアル・タバコのスポンサーカラー「ゴールド・リーフ・カラー」を採用し始めた。同社がロータスの個別スポンサーとなったためで、F1商業化の象徴的な出来事となった。
ロータスは、1968年のスペインGPからマシンの外装にインペリアル・タバコのスポンサーカラー「ゴールド・リーフ・カラー」を採用し始めた。同社がロータスの個別スポンサーとなったためで、F1商業化の象徴的な出来事となった。拡大
1967年のインディ500で談笑する、ジャッキー・スチュワート(左)とジム・クラーク(右)。1969年、1971年、1973年と3度にわたりドライバーズタイトルに輝いたスチュワートは、クラークと同じスコットランドの出身だった。
1967年のインディ500で談笑する、ジャッキー・スチュワート(左)とジム・クラーク(右)。1969年、1971年、1973年と3度にわたりドライバーズタイトルに輝いたスチュワートは、クラークと同じスコットランドの出身だった。拡大
1973年のモナコGPにてランデブー走行する、ティレルのスチュワート(手前)とフランソワ・セベール(奥)。セベールは同年のアメリカGPで事故死。あまたのドライバーの死を目にしてきたスチュアートは、引退後、F1の安全性向上に尽力した。
1973年のモナコGPにてランデブー走行する、ティレルのスチュワート(手前)とフランソワ・セベール(奥)。セベールは同年のアメリカGPで事故死。あまたのドライバーの死を目にしてきたスチュアートは、引退後、F1の安全性向上に尽力した。拡大
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