ウラジオストクvs中央政府

日本車が初めてウラジオストクに渡ったのは1977年とされるが、大規模な流通が始まったのは1990年代だという。訳者あとがきによれば、1990年代は年間12~16万台、2000年から2004年までは14~22万台が輸入されている。2008年には、日本の中古車輸出台数の約4割がロシア向けだったのだ。極東税関を通った乗用車は47万3682台。ロシアで保有されていた自動車の中で、右ハンドル車の割合は20%を超えていたというから驚く。

この状況を中央政府は問題視していたらしい。あの手この手で規制をかけ、日本車の流通を押しとどめようとした。船乗りには日本から“手荷物”としてクルマを持ち帰る特権が認められていたが、ニセの船乗りが大量に現れたことで制度を廃止。1993年になるとチェルノムィルジン首相が右ハンドルを禁止するという声明を出すが、猛反発を受けて撤回せざるを得なくなった。

2002年には車齢7年以上の中古車に対する輸入関税を大幅に引き上げた。すると、エンジンとボディー、シャシーをバラバラにしてパーツとして輸入し、ロシアに入ってから組み立てるという技が考案された。アフチェンコはそれを「民衆による自然発生的な自動車生産」と呼んで称賛している。日本車はロシア沿海地方のインフラとなったのだ。公用車としても当然のように使用され、自動車教習所では右ハンドル車で運転を練習する。

すべてをコントロールしたい中央政府にとっては面白くない事態である。ウラジオストクの人々は、モスクワの思い通りにはならないと覚悟を決めた。アフチェンコは、作家ミハイル・ジヴァネフスキイの言葉を引用している。

「わが国で最初の自由な人々はウラジオストクに現れた。それは彼らが自動車、品質がよく自由な日本車を手にした時のことだ。彼らはその自動車から自由に感染した」

『右ハンドル』
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鈴木 真人

鈴木 真人

名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。

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