凋落の道のり

だが1969年、イタリア全土を巻き込んだ歴史的な労働運動“熱い秋”に、アレーゼ工場はいや応なく巻き込まれた。

続いて1973年に発生した第1次石油危機は自動車産業に大きな打撃を与え、アルファ・ロメオにも深刻な影を落とした。

そしてアレーゼ工場にとって、最も大きな転機となったのは1986年だった。のちにイタリア共和国首相となるIRI総裁のロマーノ・プローディによって、フィンメッカニカが保有していたアルファ・ロメオ株は1兆0700億リラ(約878億ユーロ)でフィアットの手に渡ったのだ。トリノの企業のコントロール下に入ったことにより、アレーゼの役割はさらに縮小されていった。

筆者が初めてアレーゼを訪れたのは、それからちょうど10年後の1996年であった。イタリアに居を構えたのと同じ年である。寒い冬の日であった。

だが、当時はアルファ・ロメオ部門の本部が、工場から少し離れた現在の博物館部分に残されていた。加えて、フィンメッカニカ時代に開発されながらもフィアット傘下初の新世代モデルとして脚光を浴びた「164」は、アレーゼで生産されていた。アウトストラーダA8号線から見えた「Alfa Romeo」の赤いネオンサインも、ブランドの“故郷”として、辛うじて威厳を保っていた。

後年のアレーゼ工場に関するニュースといえば、悲しいものが多かった。

アルファ・ロメオの主力生産拠点は、イタリア南部のポミリアーノ・ダルコへと完全に移されていった。1992年の「155」と1997年の「156」、2000年の「147」の生産には、いずれもポミリアーノ・ダルコが充てられた。

164の後継車として1996年に登場した当時のフラッグシップ「166」の生産もトリノに移された。

1980年代には約1万9000人が在籍していたアレーゼ工場の従業員は、1997年には4000人にまで減ってしまった(出典:『イル・ジョルノ電子版』2016年4月13日)。

筆者が記憶する1990年代末のイタリアのテレビニュースでは、解雇の危機にひんしたアレーゼ工場の従業員たちが、工場前でタイヤを燃やすなどして抗議活動をする模様がたびたび映し出された。

アルファ・ロメオの旧アレーゼ工場の一角に建つ技術開発センター棟。設計はイグナツィオ・ガルデッラ。2006年5月、周囲には雑草が生い茂っていた。
アルファ・ロメオの旧アレーゼ工場の一角に建つ技術開発センター棟。設計はイグナツィオ・ガルデッラ。2006年5月、周囲には雑草が生い茂っていた。拡大
大矢 アキオ

大矢 アキオ

コラムニスト/イタリア文化コメンテーター。音大でヴァイオリンを専攻、大学院で芸術学を修める。1996年からシエナ在住。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとして語学テキストやデザイン誌等に執筆活動を展開。19年にわたるNHK『ラジオ深夜便』リポーター、FM横浜『ザ・モーターウィークリー』季節ゲストなど、ラジオでも怪気炎をあげている。『Hotするイタリア』『イタリア発シアワセの秘密 ― 笑って! 愛して! トスカーナの平日』(ともに二玄社)、『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり】(コスミック出版)など著書・訳書多数。YouTube『大矢アキオのイタリアチャンネル』ではイタリアならではの面白ご当地産品を紹介中。

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