「マツダ・ロードペーサー」の思い出

海をまたいだプロジェクトだったのに今や人々に忘れられてしまったクルマは、若干スケールは小さいが日本にもあった。
ボクが好きだった「マツダ・ロードペーサーAP(1975年)」である。
簡単に記すと、当時の東洋工業がオーストラリアのGMホールデンから輸入したボディに、マツダ製エンジン(ロータリー&レシプロ)を搭載したプレステージサルーンである。
詳しくは、こうした知られざる戦後日本車研究の第一人者である田沼哲氏の記事をご覧いただくとして、ボクは個人的な思い出を語らせていただこう。

小学生時代、バイオリンのレッスンに父親が運転するクルマで行った帰りのことだ。いつも多摩湖畔の駐車場で休憩することになっていたのだが、ある日1台の青いクルマが止まっていた。その伸び伸びとしたスタイリングに異国の香りを感じた。それが「マツダ・ロードペーサーAP」だった。

「別冊CG 19○○年の乗用車 国産車編」(二玄社刊)の誌上でしか見たことのなかったボクは、同じくエンスーであった父親とそのクルマに近づいた。そばにいたオーナー夫妻は親切な人で、初対面にもかかわらず美しい車内を見せてくれたうえ、大きなフロントフードを開いてサラサラと回るロータリーユニットの音を聴かせてくれた。

田沼氏の記事をお読みいただければわかるが、ロードペーサーAPは日本市場で成功を見ずに終わる。当時日豪間でプロジェクトに携わった人の無念さがしのばれる。
おおらかなデザインのクルマが受容されず、ゴージャスな親父グルマばかりがもてはやされていた当時の日本クルマ文化に、子供心ながら限界を感じたものだ。
それゆえ、10年のちにオーストラリアに行ったとき、ロードペーサーAPのオリジナルである「ホールデンHJプレミア」がたくさん生き延びていたのを見たときは本当に涙が出た。

こうした二国間プロジェクトで生まれた不遇のクルマに引かれるのは、ボクだけだろうか。同時に、不遇のモデルほどオーナーに優しい人が多いのも、これまた事実である。

おっと、話を戻そう。だから、マルキオンネ氏の計画する大洋をまたいだモデルが、過去の例を覆すヒット作となるのか、それともここに挙げた例のごとく、欧・米どっちつかずの失敗作になるのか、ボクは目が離せないのである。

(文=大矢アキオ、Akio Lorenzo OYA/写真=大矢アキオ、Renault)

これは本文で記した車両より後、1982年頃に発見し撮影した「ロードペーサーAP」。
これは本文で記した車両より後、1982年頃に発見し撮影した「ロードペーサーAP」。 拡大
雨の中110ポケットカメラで慌てて撮影したので、写真の質はご容赦を。
雨の中110ポケットカメラで慌てて撮影したので、写真の質はご容赦を。 拡大
白いシートを写したかったと思われるが、消臭剤・自動車用キムコも懐かしい。
白いシートを写したかったと思われるが、消臭剤・自動車用キムコも懐かしい。 拡大
「RP」のバッジを配したCピラー。後付けの庇(ひさし)が渋い。残念ながらボクは以後の人生で「ロードペーサー」に遭遇していない。
「RP」のバッジを配したCピラー。後付けの庇(ひさし)が渋い。残念ながらボクは以後の人生で「ロードペーサー」に遭遇していない。
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大矢 アキオ

大矢 アキオ

コラムニスト/イタリア文化コメンテーター。音大でヴァイオリンを専攻、大学院で芸術学を修める。1996年からシエナ在住。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとして語学テキストやデザイン誌等に執筆活動を展開。19年にわたるNHK『ラジオ深夜便』リポーター、FM横浜『ザ・モーターウィークリー』季節ゲストなど、ラジオでも怪気炎をあげている。『Hotするイタリア』『イタリア発シアワセの秘密 ― 笑って! 愛して! トスカーナの平日』(ともに二玄社)、『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり】(コスミック出版)など著書・訳書多数。YouTube『大矢アキオのイタリアチャンネル』ではイタリアならではの面白ご当地産品を紹介中。

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