ランチアのスペシャルイベント「ランチア ランチ 2012」
2012.10.26 画像・写真2012年10月21日、神奈川県大磯町の大磯プリンスホテルで「ランチア ランチ 2012」が開かれた。このイベントはランチア本社の公認を受けた「ランチア クラブ ジャパン」の総会として、毎年開催されているオーナーズミーティングである。つまりはメーカーやインポーターの息のかかっていない(そもそも現在ランチアは正規輸入されていない)純粋なクラブイベントなのだが、ランチアが創立100周年を迎えた2006年には往年のワークスドライバーであるミキ・ビアシオンを招聘(しょうへい)するなど、気合の入ったところを見せていた。今回はクラブ創立20周年特別企画ということで、さらにパワーアップ。ワークスの「ストラトス」を駆り、1975年から77年にかけてモンテカルロラリーを3連覇したサンドロ・ムナーリを筆頭に、同じく元ランチア・ワークスドライバーのシモ・ランピネン、元ベルトーネ広報部長のジャン・ベッペ・パニッコ、さらにストラトス研究家のトーマス・ポッパーという4人ものスペシャルゲストを海外から招致するビッグイベントとなった。繰り返すが主催者はあくまでランチア愛好家の集まりで、イベント開催に関しては素人である。経済的な負担もさることながら、普段の仕事の合間を縫ってのイベント企画および準備は、さぞかし大変だったに違いない。しかし、その骨折りを神様はちゃんと見てくれていたようで、当日、最高のイベント日和に恵まれた会場には、およそ200台のランチアが集結。かつてのライバルである他メイクのラリーカーも祝福に駆けつけた。プログラムはムナーリらゲストのトークショーやタイムトライアル、そしてメインイベントであるムナーリのデモラン。現役時代をほうふつさせる彼のドライビングに来場者はシビれ、大盛況に終わったのだった。こんなスペシャルなイベントをやってのけるクラブは、筆者の知る限り日本では「ランチア クラブ ジャパン」だけである。その情熱と行動力に心から敬意を表するとともに、すばらしいイベントを取材させていただいたことを感謝したい。ということで、会場から印象に残ったマシンとシーンを紹介しよう。(文と写真=沼田 亨)

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雲ひとつない秋晴れの下、オープニングは「ストラトス」のパレード。右からサンドロ・ムナーリ、ジャン・ベッペ・パニッコ、シモ・ランピネンというゲストがドライブする3台のグループ4ラリー仕様に続いてクラブメンバーの乗る12台のストラダーレが横一線に並び、会場内の走行スペースの端から端へしずしずと行進。
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ゲストがドライブする3台は、そのまま車両展示スペースにギャラリーが待ち構える“花道”を通ってオープニングセレモニーの行われるステージへと進む。本当にすばらしい天気で(驚くことにイベント終了までまったく雲が出なかった)、現場では気付かなかったが、画面右端にイベントを祝福するかのように富士山が頭を出している。
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ステージ上でゲストの紹介。左からランチア社の人間も「『ストラトス』のことなら、われわれではなく彼に聞け」というほどの著名なストラトス研究家であるトーマス・ポッパー、長年にわたってカロッツェリア・ベルトーネの広報部長を務め、ストラトス・プロジェクトの全貌を知るジャン・ベッペ・パニッコ、坊やを挟んでサーブとランチアのワークスチームからラリーに参戦、氷上レースやルマンなど耐久レースでも活躍した元祖“フライング・フィン”のシモ・ランピネン、そしてメインゲストであるサンドロ・ムナーリ。
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最初のプログラムはサンドロ・ムナーリと『カーグラフィックTV』でおなじみの田辺憲一氏(中央)のトークショー。『CAR GRAPHIC』編集記者時代にラリーを担当していた田辺氏によれば「モンテカルロをはじめとするラリーでの活躍はもちろんだが、彼のすごいところは、当時世界一過酷なロードレースといわれたタルガ・フローリオでも、1972年に初めて乗ったプロトタイプレーシングの『フェラーリ312PB』で優勝、翌73年にも『ストラトス』を駆り、トラブルに悩まされながらも2位に入っていること。残念ながら彼の全盛期にはWRCにドライバーズタイトルがなかったが(79年から制定)、もしあったら戴冠していただろう」とのことだった。なお、このトークショーを含むイベントの様子は、『カーグラフィックTV』で2012年12月に放映予定。
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サンドロ・ムナーリ。1940年生まれというから今年で満72歳だが、レイバンが似合うシャープな風貌、スリムな体形は現役時代の面影を十二分に残している。1965年にまずコドライバーとしてラリーに参戦開始し、ドライバーに転向後ランチアチームを率いていたチェザーレ・フィオリオに見いだされ、「フルビアHF」のワークスカーを駆って67年と69年にイタリア国内選手権を制覇。「ストラトス」には開発ドライバーとしてプロジェクトの立ち上げから関与し、75〜77年にモンテカルロ3連覇という偉業を成し遂げたことは広く知られるところである。
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当日はもちろん「ストラトス」以外の歴代ランチア車も多く集まった。1951年に世界で初めて“GT”を名乗った「アウレリアB20 2500GT」、ザガート製アルミボディーをまとった「フラミニア・スポルト」、そして「フルビア・クーペ」などが並んでいる。
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イタリア大統領の公用車にも用いられた、ランチアそしてイタリアの最高級セダンだった「フラミニア・ベルリーナ」から派生した「フラミニア・クーペ」。ピニンファリーナによる優雅なボディーに2.5リッター(63年以降は2.8リッター)V6エンジンを搭載、1959年から67年まで造られた。
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フラミニア・シリーズの最終・最強モデルとして1964年に登場した「フラミニア・スペルスポルト」。ザガート製アルミボディーに3キャブレター仕様の2.8リッターV6エンジンを搭載、3年間に187台しか作られなかった希少車。
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往年のヒストリックモデルのいっぽうでは、「イプシロン」や「ムーザ」といった現役モデルも並んでいた。目下、日本には正規インポーターが存在しないランチアの実用車を愛用するということは、これはこれでかなり好きでなければできないことである。
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そうした“ランチア・ジミーズ” ともいうべき最近の実用的なモデルの一群のなかで、もっとも目立っていたのが、この「テージス」。2001年から08年まで作られたフラッグシップだが、この個体は白とシルバーのツートーンのボディーに赤革の内装という凝った仕様である。これの前は黒いテージスに乗っていたというオーナー氏は、ドイツのディーラーが特注したこの個体を新車のまま保有していることをネットで見つけ、わざわざドイツから入れたのだという。漢(おとこ)だねえ。
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見渡す限りの「デルタHFインテグラーレ」。もちろん車種別の参加台数ナンバーワンで、70台ほどいたと思う。
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今回は記念すべき開催とあって、ラリーで覇を競ったグループBカーを中心に、ランチア以外のメイクも“友情出演”。これは「プジョー205ターボ16」。姿形こそプジョー205に似せているが、中身はミドシップ4WDというグループBのホモロゲーションモデルで、WRCでは1985年、86年にドライバーズ、メイクス両部門を連覇した。
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これもグループB時代の「シトロエンBX 4TC」。パワートレインは2.1リッターターボとパートタイム4WDの組み合わせで、サスペンションは前後ともダブルウィッシュボーンに変更されたが、スプリングはハイドロニューマティックのまま。ホモロゲーション取得用に200台が作られたものの、成績不振と高価格ゆえに市販モデルの多くが売れ残ったと言われている。この個体は日本に2台あるうちの1台という超希少車。
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「オペル・マンタ400」。“ドイツ版「セリカ」”のようなスペシャルティーカーだったマンタをベースにしたグループBのホモロゲーションモデルで、1981年に登場。DOHC16バルブ2.4リッターエンジンを搭載、駆動方式はオーソドックスなFR。マンタ400は目立った成績は残してないが、シャシーを共有する「アスコナ400」は82年にヴァルター・ロールのドライブでWRCドライバーズタイトルを獲得、メイクスでも2位となっている。
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4台そろって参加した「日産240RS」(右から2〜5台目)。型式名S110こと3代目シルビア(右手前)をベースに開発されたグループBのホモロゲーションモデルで、1983年にデビュー。オーバーフェンダーで武装したボディーに、車名のとおり240psを発生するDOHC16バルブの2.4リッターエンジンを搭載している。
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メインイベントであるゲストドライバーのデモランを前に、希望者によって「チャレンジ・ムナーリ」の名を冠したタイムトライアル(パイロンジムカーナ)が行われた。この「デルタHFインテグラーレ16V」、有名な白ベースではなく、ワークスでは1989年のサンレモ1戦のみに使われたという赤ベースのマルティニカラーに塗られている。
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「フルビア・スポルト」。ラリーでの活躍で名高いフルビアHFと基本的に同じシャシーに、ザガート製のテールゲートを持つアルミボディーを架装したモデルで、1967年にデビュー。スタイリングには、50〜60年代の曲面を基調としたフォルムから、70〜80年代のエッジの効いたザガート・デザインへと移行していく兆しが感じられる。
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「ラリー037」の後を受けて1985年にデビューしたグループBホモロゲーションモデルの「デルタS4ストラダーレ」。ターボとスーパーチャージャーを備えたDOHC1.8リッターエンジンをミドシップし、駆動方式はフルタイム4WD。翌86年はチャンピオン候補の最右翼だったが、ツールド・コルスでエースだったトイボネンがクラッシュ、マシンは炎上してコドライバーともども死亡、結局タイトルも逃した。この事故をきっかけにモンスター化したグループBは危険すぎるという声が高まり、翌87年からはグループAに移行することになる。いろいろな意味で悲劇のマシンである。
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「ストラトス」の後を受けた「フィアット131アバルト・ラリー」に代わって、1982年からグループB規定のWRCに投入され、翌83年にメイクスタイトルを獲得した「ラリー037」。ジャンパオロ・ダラーラ設計のシャシーにスーパーチャージャーで過給するDOHC16バルブ2リッター(後に2.1リッター)エンジンをミドシップ。スタイリングはピニンファリーナが手がけている。
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ランチア以外のマシンも走った。これはアリタリア・カラーをまとった、ミニ・ストラトス風(?)な「オートザムAZ-1」。これを見て思い出したが、80年代にスズキのマー坊こと「マイティボーイ」の顔つきを「ラリー037」風に改造する、「ヤンチャ・ラリー」とかいうボディーキットがあったっけ。
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より市販車に近いモデルでブランドのイメージアップを、というフィアット・グループ内のマーケティング戦略から、ストラトスに代わるWRCグループ4のホモロゲーションモデルとして1976年に登場した「フィアット131アバルト・ラリー」。平凡なセダンベースながら戦闘力は高く、77年、78年、80年とWRCでメイクスタイトルを3度獲得している。
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「ルノー5ターボ2」。大衆車のルノー5をベースに、OHV 1.4リッターのターボエンジンをミドシップしたグループ4のラリー用ホモロゲーションモデルが、1980年に登場した「5ターボ」。一部アルミ製だった「5ターボ」のボディーパネルをスチールに替えるなどして生産性を高めて価格を下げたのが、83年に出たこの「5ターボ2」である。
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マシンは先に紹介した「日産240RS」軍団の1台だが、操っているのは“マッドドッグ”の異名をとるラリードライバーの三好秀昌選手。聞けばランチアのラリーマシンの扱いを心得ていることから助っ人として呼ばれたそうだが、会場にきたら以前に取材で乗ったことのある240RSがいたので、ドライブしたとか。派手に振り回して喝采を浴びていたが、その三好氏いわく「ムナーリさんもランピネンさんも、お年とはいえ走りにスゴさがにじみ出ていた」とのことだった。
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シモ・ランピネンはその名から想像されるとおりフィンランド人で、1963年の1000湖ラリーで初優勝、同年のフィンランド国内選手権のチャンピオンに輝いた。当時彼が操っていた「サーブ96モンテカルロ850」も運よく来場しており、オーナーは喜んでデモランに提供。2ストローク3気筒エンジンの軽快なサウンドを奏でながら、スイスイ走り回っていた。
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ランチア・ワークス在籍時には、ムナーリのチームメイトとして「フルビア」「ベータ・クーペ」「ストラトス」などを駆ったランピネン。このマールボロ・カラーの「フルビア・ラリーHF」も、そのうちの1台に数えられる。三好氏によれば「ステアリングがすごく重くて、スラロームは大変なはず」だそうだが、軽々と操っていた。