「クラシックカーフェスティバル in みさと公園」(後編)
2011.10.06 画像・写真2011年10月2日、埼玉県三郷市にある「みさと公園」で、「クラシックカーフェスティバル in みさと公園」が開かれた。これは埼玉県公園緑地協会40周年記念事業のひとつとして企画された旧車イベントで、今回が初開催となる。イベントの実質的な仕切り役は通称「サブロク」こと360cc規格の軽自動車愛好家の集いである「さいたま東サブロクオーナーズクラブ」で、参加資格は1988年までに製造された車両。当初予定していた募集台数は150台だったが、アクセスのいいロケーションとリーズナブルな参加費(1000円)が魅力だったのか、初回開催、そしてイベントのハイシーズンであるにもかかわらず応募が予想外に多かったため、枠を200台以上まで拡大した。それでも一部の参加希望者には断らざるを得ない状況だったという。日本車を主体に集まった220台のなかから、ヒストリーのある車両を中心に紹介しよう。(文と写真=沼田 亨)
(前編はこちら)

1970年「スバルR-2 デラックス」。69年に登場した、「スバル360」に次ぐリアエンジンの2代目という意味を持つ「R-2」の初期型。「フィアット600」にも似たかわいらしいルックスながら、デビュー当初のキャッチフレーズは「ハードミニ」だった。空冷2ストローク2気筒エンジンをはじめ、基本となるレイアウトは「スバル360」から踏襲するものの、全面的に新設計されていた。最初はこうしたシンプルな姿だったが、当時の軽市場の主流だった高性能化、高級化の波に飲まれ、やがては厚化粧を施されてしまう。また、71年には水冷エンジン搭載モデルも追加された。
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1970年「スバルR-2 デラックス」。69年に登場した、「スバル360」に次ぐリアエンジンの2代目という意味を持つ「R-2」の初期型。「フィアット600」にも似たかわいらしいルックスながら、デビュー当初のキャッチフレーズは「ハードミニ」だった。空冷2ストローク2気筒エンジンをはじめ、基本となるレイアウトは「スバル360」から踏襲するものの、全面的に新設計されていた。最初はこうしたシンプルな姿だったが、当時の軽市場の主流だった高性能化、高級化の波に飲まれ、やがては厚化粧を施されてしまう。また、71年には水冷エンジン搭載モデルも追加された。
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1970年「ホンダN360」。67年に発売されるや否や高性能と低価格を武器に、10年近くにわたって軽のベストセラーを独占していた「スバル360」からその座を奪い、四輪車メーカーとしてのホンダの基礎を固めた大ヒット作。この個体は左ハンドルで、フロントグリルやライト類などが国内仕様とは異なる。N360のボディーに600ccエンジンを積んだ輸出用の「N600」(「N600E」の名で国内販売もされたが、当時の規格では小型車)は時おり見かけるが、軽規格の「N360」は非常に珍しい。残念ながらオーナーの話は聞けなかったが、もしかしたら、まだアメリカ統治下にあった沖縄向け仕様なのかもしれない。
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1971年「ホンダZ GS」。「N360」のヒットによって一躍軽のリーディングブランドとなったホンダが70年にリリースした、軽初のスペシャルティカー。ベースはもちろんN360で、空冷並列2気筒SOHCエンジンほかメカニズムは基本的にすべて共通。ボディーは3ドアハッチバックで、特徴的な太い縁取りのあるテールゲートから「水中メガネ」の愛称で呼ばれた。この個体はツインキャブエンジンに5段ギアボックス、前輪サーボ付きディスクブレーキという、サブロク軽としては異例に高級な装備がおごられたトップグレードの「GS」。71年暮れから72年にかけてベースがN360から水冷エンジン搭載の「ライフ」に変更されてしまったため、空冷Z、しかも「GS」の残存車両となると非常に少ない。
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1970年「三菱ミニカ70 GSS」。62年に誕生した初代ミニカは、当時の軽乗用車としては唯一のFR、唯一のトランク付き3ボックスの地味なモデルだった。69年に世代交代した「70」(セブンゼロ)のサブネームを持つ2代目は、駆動方式こそFRのままながら、軽としては初めてハッチバックスタイルを採用して一気に若返りを計った。「GSS」は水冷2ストローク2気筒エンジンをハイチューンしたホットバージョン。フロントグリルを赤で縁取ったデザインは、ホットハッチの代名詞的存在である「フォルクスワーゲン・ゴルフGTI」より6年近くも早く、この「ミニカ70 GSS」を元祖ホットハッチとする説もある(唱えているのは筆者ひとりだが)。それはともかく、この個体はワンオーナーのフルオリジナル車両である。
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1970年「三菱ミニカ70バン」。先に紹介したミニカ70の商用バン。3ドアハッチバックのGSSと比べてルーフが後端まで延び、テールゲートの角度も起きて貨物スペースを確保している。ヘッドライトはGSSとは異なり角目2灯だが、高性能版および豪華版を除いたモデルは、みなこの仕様だった。なんの変哲もない地味な商用車だが、それだけに残存車両は相当に少ない。しかもこの個体は、程度もすばらしい。ちなみに「70」というナンバーは車名に合わせた希望ナンバーかと思いきや、通称「小判ナンバー」ことひと回り小さい360cc規格の軽ナンバーには、希望制はないとのこと。つまりは偶然の産物なのだ。数こそ少ないだろうが、わかる人にはわかる、隠れた自慢のポイントである。
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1967年「マツダ・キャロル360 2ドアデラックス」。62年に誕生した初代キャロルは、クリフカットのルーフが特徴的なRRの軽乗用車で、当時は「スバル360」に次ぐ人気があった。この個体はちょっと顔つきが違うと思ったら、懐かしのマーシャルのハロゲンライトを装着し、フロントエプロンがメッシュで作り替えられている。後ろに回ってみると、バンパーの下にかわいいオイルクーラーがのぞいていた。オーナーにフードを開けてもらったところ、水冷4ストローク4気筒、しかもクロスフローで総アルミ製という高級な設計のエンジンは4連キャブなどでスープアップされていた。ちなみにキャブはカワサキの「ゼファー400」用で、インマニは自作。メッシュのエプロンは、ラジエターをリアからフロントに移設したためという。なるほど。
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1968年&69年「スバル360カスタム」。58年に誕生した、日本が世界に誇る傑作車である「スバル360」。63年に追加された「カスタム」は、乗用ワゴン的な雰囲気の商用バンである。リアエンジンのため荷室の床は高くスペースは広くないが、「スバルクッション」と呼ばれた乗用車譲りの抜群の乗り心地から、デリケートな商品の配送用などに適していた。個人的な記憶では、街のテーラーなどが使っていたように思う。最大積載量は2人乗りで250kg。
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1973年「スズキ・フロンテクーペGXCF」。水冷2ストローク3気筒エンジンをリアに積んだ、360cc規格の軽最速のマイクロスポーツ。ジウジアーロのデザインといわれることがあるが、実際はそうではなく、彼が手がけたシティーコミューターのコンセプトモデルをベースにスズキ社内でデザインされた。この個体はオーナーのお兄さんが新車で購入したという、いわば準ワンオーナー車である。知り合いに作ってもらったウエットカーボン製のボンネットとエンジンフード、フロントエプロンを装着しているほか、台所用品を加工したというヘッドライトのルーバーや、自分で座面部分をチェックの布地に張り替えたシートなど、随所にオーナーのアイデアが光っている。
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1970年「スズキ・キャリイ・バン」。かなりサビが目立つが、こちらは正真正銘のジウジアーロのデザイン。彼がカロッツェリア・ギアから独立して設立した「イタル・デザイン」の記念すべき第1作でもある。「キャリイ」は61年に誕生し、今もラインナップされている軽トラック。派生モデルのワンボックス・バンは「エブリイ」だが、かつては「キャリイ・バン」と名乗っていた。ジウジアーロ・デザインのこれは4代目で、69年にデビュー。まるで電車のような前後対称のデザインはスタイリッシュではあったが、テールゲートが傾斜していることから積載容積および積みやすさの点で難があり、市場では好評とはいえなかった。
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仲良く2台並んだ1973年「マツダ・ポーターキャブ」。そもそも「ポーター」は68年に登場したボンネットタイプの軽トラック/ライトバンで、キャブオーバータイプの「ポーターキャブ」は翌69年にトラックのみが追加された。オメメがパッチリとした顔つきは、「かわいく見せようと思って作ったわけじゃないが、結果的にかわいく見えるクルマランキング」で上位入賞は固いところだ。よく見ると右側が標準トラックで、左側は三方開き式である。背の高さがちょっと違うが、右がノーマルで、左はローダウンされている。いずれも水冷2ストローク2気筒エンジンを搭載する。
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一つ目小僧に二つ目小僧(?)、会場内をトコトコ走る2台の「ダイハツ・ミゼット」。「街のヘリコプター」というキャッチフレーズを掲げて売り出され、戦後の高度経済成長を支えた横丁の働き者である。一つ目が1959年に登場したバーハンドルの「DK2」で、二つ目が62年から72年まで作られた「MP5」。「DK2」はこの個体のようなツートンカラーが標準で用意されていたが、「MP5」は「ミゼット色」と俗称される若草色のみで、ツートーンはなかったように思う。
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1952年「マツダ三輪トラック HB型」。戦前からダイハツのライバルだった東洋工業(現マツダ)の、最大積載量500kg積みのオート三輪。エンジンは空冷単気筒700cc、バーハンドルでオートバイのようにまたがって運転する。ただし乗車定員は2名である。もうひとりはどこに乗るかって? 答は次の写真にて。
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運転席の左側に助手席があり、このようにオフセットして座る。この頃は運転手の助手が座るから文字どおり「助手席」だったのだが、今では助手などいないのに言葉だけが生き残っているわけだ。シフトはハンドチェンジで、まるでフェラーリのような立派なシフトゲートが刻まれている(ポジションを示す数字は現オーナーが貼ったもの)。シフトの前にある2つのキャップはガソリンとオイルの給油口で、なんとドライサンプだという。写真右下はフレーム前方の左右に貼られたプレート。まだ戦争の記憶が生々しかった時代に、原爆の犠牲になった広島で作られたクルマだけに、「平和型」という言葉に特別の重みが感じられる。
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1968年「マツダ・ファミリア・ロータリークーペ」。先に紹介したオート三輪から10年もたたないうちに、マツダはロータリーエンジンの開発を始めた。67年には最初のロータリー搭載車である「コスモスポーツ」を発売したが、翌68年に登場した「ファミリア・ロータリークーペ」は、マツダが「ロータリゼーション」と呼んだロータリー大衆化の第1弾。大衆車であるファミリアのクーペボディーに、コスモスポーツと同じ10A型エンジンをややデチューンして搭載し、価格はコスモスポーツ(148万円)の半額以下の70万円。シャシーはエンジンに対して力不足だったが、コストパフォーマンスは抜群だった。この個体は、初代RX-7用の純正アルミホイールを履いている。
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1978年「マツダ・サバンナRX-7 GT」。60年代後半から70年代にかけて、未来のエンジンと目され、メルセデスをはじめ世界のトップメーカーがこぞって開発していたロータリーエンジン。しかし73年に勃発(ぼっぱつ)した石油危機によって各社は大食いなロータリーの開発を中止、いっぽうそれに傾注していたマツダは窮地に追い込まれた。それから約5年後に登場した初代「RX-7」(型式名SA22C)は、軽量でコンパクトなロータリーをスポーツカー用ユニットとして蘇生させたモデル。ただし世間に漂う省資源・アンチ高性能ムードを読んでスポーツカーとはうたわず、「ロータリー・スペシャルティー」と称していた。この個体はその初期型で、オリジナルのフェンダーミラーをドアミラーに替えてある。
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1963年「いすゞヒルマン・ミンクス・スーパーデラックス」。戦前からの大型車メーカーだったいすゞが乗用車市場に進出するにあたって、イギリスのルーツ・グループ(後にクライスラーUKとなり、最終的にはプジョーが吸収)と技術提携を結び、53年からライセンス生産を開始したのが「ヒルマン・ミンクス」。前編で紹介した「日産オースチンA50」のライバルとなる、1.5リッター級のセダンだった。これはその最終型だが、ツートンカラーが多かったヒルマンには珍しいモノトーンで、しかも色はこれまた珍しいガンメタリック。さらに前席が標準のベンチではなく、セパレートシートという不思議な仕様である。
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1950年「フォード・プリフェクト」。ヘッドライトをフロントフェンダーに埋め込んだほかは戦前型とほぼ同じで、53年まで作られた英国フォードの大衆車。本家アメリカの戦前型フォードを縮小したようなスタイリングのため、比較対象がないとサイズがわかりにくいが、全長3942mm、全幅1428mm、全高1613mmと長さを除けば現行軽のハイトワゴンよりコンパクトである。実際に見ると、風格と愛らしさが同居した独特の魅力がある。エンジンは直4サイドバルブの1172cc。
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1974年「フィアットX1/9」。ガンディーニがデザインしたタルガトップを持つ2座スパイダーのシートの背後に、フィアット初のFF車である「128」のパワートレインをそっくり移設したミドシップ・ライトウェイトスポーツ。デビューは72年だが、このクルマは日本への正規輸入が始まった74年に登録されたワンオーナー車。X1/9は生産期間が89年までと長く、日本へも少なからぬ数が輸入されたが、車体が腐食しやすかったこともあってオリジナル状態を保っている車両は少ない。その意味においても、この個体はきわめて希少な存在である。エンジンは直4SOHC1.3リッターで、74年当時の日本価格は189万円。倍の排気量(2.6リッター)を持つクラウンの最高級グレードより高価だった。
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1956年「フォード・サンダーバード」。「Tバード」の愛称で呼ばれるパーソナルカー、サンダーバードの最初の世代で、55年にデビュー。オープン2座ボディーは全長4.5m弱、全幅1.8m弱とアメリカ車にしては小柄なことから、「ベビーサンダー」とも呼ばれる。エンジンはもちろんV8OHVで、標準が4.8リッター、オプションが5.1リッター。ギアボックスは3MTまたは2ATだった。日本では74年に公開された映画『アメリカン・グラフィティ』に登場する、謎の美女が乗る丸窓付きのハードトップを装着した白いTバードが、この56年型だった。
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今年、生誕50周年を迎えた「ジャガーEタイプ」のロードスター。右が直6DOHC4.2リッターを積んだ66年式「シリーズ1」で、左がV12SOHC5.3リッターを積んだ74年式「シリーズ3」。シリーズ1のデビューから10年後の71年に登場したシリーズ3は、シリーズ1よりトレッドが広いことがこの写真でもわかるが、実際のところ前後とも100mm近く拡大されている。エンツォ・フェラーリも認めた美しいスタイリングと高性能を誇りながら、スポーツカーにしては大量生産のために価格は比較的リーズナブルで、ほぼ性能の等しいアストン・マーティンの半額以下だった。日本での66年当時の価格は500万円弱で、絶対的には高価だが、半分以下の2リッターの「ポルシェ911」が400万円以上していたことを考えれば割安である。ポルシェが高すぎたともいえるが。