ホンダ ツイン カム クラブ創立35周年記念走行会
2011.10.27 画像・写真2011年10月23日、千葉県袖ケ浦市にある袖ケ浦フォレスト・レースウェイで「ホンダ ツイン カム クラブ創立35周年記念走行会」が開かれた。「ホンダ ツイン カム クラブ」(HTCC)は、日本が世界に誇るスポーツカーである「ホンダSシリーズ」(S500/600/800)のワンメイククラブとして、1976年に発足。現存する日本車のワンメイククラブとしては、「日野コンテッサクラブ」、「トヨタスポーツ800オーナーズクラブ」、「SP/SRオーナーズクラブ」などと並ぶ、その道の草分け的存在である。クラブの目的は「Sシリーズ」を動態保存するための会員相互の情報交換および親睦(しんぼく)で、具体的にはミーティング、ツーリング、ウェブサイトからの情報発信、ヒストリックカーイベントやレースへの参加や展示、パーツの安定供給を図るための活動などを行っているという。そのHTCCでは設立以来、5年ごとに節目となるイベントを開催してきた。サーキット走行あり、パーティーありと毎回趣向を変えてきたが、そもそも走り好きが集まったクラブだけに、今回は走行会を選択した。当日はクラブ員以外のビジターも含めて、ホンダSのN(ナンバー付き)クラスが13台、R(レーシング)クラスが17台の30台と、S以外のゲスト車両14台の計44台が参加。走行開始時間には朝方から降っていた雨は上がったものの、コースはあいにくのウエットコンディション。しかし、水しぶきをあげながら走るクラブ員の表情はみな楽しそうで、進行役からは「おかげでジェントルな走りになり、アクシデントもなく無事に終了した」という声も。走行会の後に開かれたランチパーティーには、かつて環境庁長官や法務大臣を歴任したサーキットオーナーの中村正三郎氏や、『CAR GRAPHIC』名誉編集長の小林彰太郎氏も顔を見せ、祝辞を述べた。走行会といえどもタイム計測は行わず、和気あいあいとした雰囲気だったサーキットから、印象に残ったマシンを紹介しよう。(文と写真=沼田 亨)

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コースインを待つR(レーシング)クラスの参加車両。
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N(ナンバー付きノーマル車両)クラスから、Sシリーズ初、そしてホンダ初の市販四輪乗用車として、1963年10月に発売された「S500」。日本で初めてDOHCを採用、4連キャブレターを装着して44psを発生する531ccエンジンを搭載。後輪をシャフトではなくチェーンで駆動する独創的なチェーンドライブも特徴だった。ホンダSというと赤やアイボリーといった明るいカラーの印象が強いが、このシックな「スモークブラック」も純正色である。ホイールキャップを外し、ライトに割れた際の飛散防止用のビニールテープを貼るのは、往年のサンデーレーサースタイルだ。
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「S500」発売からわずか5カ月後の1964年3月にリリースされた発展型の「S600」。ボディーはフロントグリルが下方に広げられてパターンが細かくなり、それにしたがってバンパーの形状も変更。海外で「時計のように精巧」と評されたエンジンは606cc・57psに増強されている。価格は「S500」の45万9000円より5万円高い50万9000円だった。ちょうど国内四輪モータースポーツの黎明(れいめい)期に登場し、スポーツカーとしては手頃な価格もあってレースでも大活躍し、数多くのドライバーを育てた。この個体は純正ハードトップを装着している。
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「S500」以来のヘッドライトのガラス製カバーが外され、ライトリムやスモールランプの形状も若干変わった後期型の「S600」。ホンダはこの「S600」を使って(当時のホンダにはこれしか乗用車がなかったので、1車種だけで)、「ホンダレンタカー」を始めた。ちなみに当時の料金は、12時間まで平日が1800円、日祭日が2700円で、1kmあたりの使用料(ガソリン・オイル込み)が16円。日曜に200kmドライブすると、5900円となる。1965年の大卒初任給は約2万4000円だから、月給の約1/4で、今の感覚からすると5万円近い。レンタカーといえども、スポーツカー遊びはやっぱりぜいたくだったのだ。
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1965年3月に追加された「S600クーペ」。テールゲートを備えたスポーツワゴン風のファストバックスタイルで、「ビジネスにも最適」という宣伝文句を掲げて売り出された。そのコンセプトは斬新だったが、まだ普通の乗用車さえ普及していなかった当時の日本では時期尚早であり、市場に受け入れられたとは言いがたい。なお「S600クーペ」の純正色には、Sシリーズのイメージカラーともいえる、この「スカーレット」と呼ばれる明るい赤は設定されておらず、「ローヤルレッド」という渋めの赤が用意されていた。意外な気もするが、当時のホンダはそこまで気配りしていたわけで、その「ローヤルレッド」を含めて4色がそろえられていた。しかし販売不振だったため、「S800クーペ」になると「スカーレット」1色のみになってしまうのである。
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1966年1月に「本格的100マイルカー」をうたって発売された「S800」。エンジンを791cc・70psまでスケールアップし、最高速度160km/h(約100mph)が実現したことをアピールしたのである。ボディーはボンネットにパワーバルジが盛り上がり、フロントグリルの意匠を変更、テールランプも円形から横長となった。価格は65万8000円。当初はS500以来の特徴的なチェーンドライブだったが、65年5月には一般的なシャフトドライブのリジッドアクスルに変更された。この個体のボディーカラーのイエローは、登場と同時に加えられた純正色である。
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1968年4月に登場した、Sシリーズの最終発展型である「S800M」。ボディーの四隅にリフレクターが装着され、内装も安全対策を中心に小変更を実施。シャシーにはラジアルタイヤと前輪ディスクブレーキが採用された。価格は75万円となり、国内向けの「S800クーペ」はラインナップから消えた。残ったロードスターも70年5月には生産中止となる。この個体はカタログにはない英国車風のグリーンに塗られているが、これはこれで悪くない。
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輸出仕様(左ハンドル)の「S800クーペ」。「S800M」同様にボディーの四隅にリフレクターが付き、この写真では見えないが、フロントのウインカーレンズも国内仕様よりも大きい。ルーフ後端が高いのは、企画当初に2+1(後席は横向きに1名)のシートアレンジを想定していたためといわれているが、そこからスパッと切り落としたコーダ・トロンカのテールに向かう猫背なラインが、個性的なスタイルを生み出した。もっとルーフが低かったら、平凡でつまらない姿になっていたのではないかと思う。
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ここからはR(レーシング)クラスの出走車両。これは「S600」のデビュー戦となった1964年の第2回日本グランプリのGT-?レースで優勝した、ロニー・バックナムのマシンをイメージしたモデル。シンプルなマスクは「S500」のものだが、実際に出走したワークスの「S600」も、「S500」のボディーに600のエンジンを積んだ仕様だった。ロニー・バックナムは第1期ホンダF1の最初のドライバーだが、そのレースで彼に次いで2位に入賞したのは、ホンダの二輪ライダー出身で、後に日産のワークスドライバーとして大活躍する北野元だった。
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これも「S500」顔だが、中身は「S600」というマシン。グレーを主体にモノトーンでまとめたカラーリングにセンスが光る。ウインドシールドにアクセントとしてあしらった、白黒のチェッカー模様も効いている。
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低いウインドスクリーンやフロントスポイラーで武装した本格的なレーシング仕様。グリルは「S600」用だが、ボンネットはパワーバルジの付いた「S800」用。そのボンネットが完全には閉まらないところを見ると、エンジンはかなりスープアップされているのか? オープンなのにヘルメットがフルフェイスではなく、ジェットへル+ゴーグルというドライバーのスタイルにもこだわりが感じられる。
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ドライバーの後ろに整流用のフェアリングを装着した「S600」。ヘルメットのバイザーを開けて走っていたが、水しぶきが顔に当たらないのかな?
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低く、フラットなレーシング用ハードトップを装着した「S800」。このハードトップは、当時ホンダの国内モータースポーツを統括していた「RSC」(レーシング・サービス・クラブ、後にレーシング・サービス・センターに改称、現在のHRCの前身)が開発したもので、以来プライベーターも含めたレーシング仕様がこぞって使用していた。それはともかく、なんとこの個体は「S」の最大の特徴であり、魅力ともいえるツインカムエンジンを電気モーターに替えた「コンバート・レーシングEV」なのである。ちなみに走りっぷりは、オリジナルの「S」に遜色なかった。
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1967年のニュルブルクリンク500kmで、生沢徹のドライブにより総合11位、GT1000cc以下でクラス優勝を果たした「S800」をイメージした仕様。生沢車は「RSC」によってフルチューンされていたという。なお、64年の同レースでもデニス・ハルム(67年のF1世界チャンピオン)の駆った「S600」がクラス優勝している。
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メインストレートを疾走する、「HTCC」現会長の杉田正文氏の「S800」。「隗(かい)より始めよ」というわけか、走り好きの集うクラブの会長を務めるだけあって、杉田氏の「S800」は群を抜いて速かった。ちなみに彼は、「S800」のシャシーに若き日の林みのる氏(「童夢」社長)が手がけたボディーを架装したレーシングカー「マクランサ」も所有しているという。
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「マクランサ」と並び称されるSベースのレーシングスペシャルである「コニリオ」。工業デザイナーの濱 素紀氏がデザインから製作まで行ったFRPボディーを「S800」のシャシーに載せたモデルで、1968年に実戦デビュー。69年の日本グランプリには2台が決勝に進出、そのうち現八王子市長の黒須隆一氏がドライブした「デイ&ナイトSPL」の名を冠したマシンが見事クラス優勝(総合12位)を果たし、もう1台もクラス2位(総合14位)に入った。この個体はナンバーを取得しており、公道走行も問題なく行える。
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「S600」のレーシング仕様、と思ったがドライバーが真ん中に座っている。以前にwebCGでも紹介した軽自動車の耐久レース「K4GP」にも参戦しているマシンで、かつて日産から出ていた「マーチ」の1リッターエンジンをミドシップしたワンメイクレース用マシン「ザウルスJr.」のシャシーに「S600」風のFRP製ボディーをかぶせたもの。エンジンはちゃんと「S600」用を積んでいる。
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これも「K4GP」ではおなじみのマシン。1969年に「RSC」が製作した、「ブラバムF3」改シャシーにFRPボディーをかぶせ、「S800」のエンジンを積んだ「ホンダ800R」のレプリカ。中身は通称「親ザウルス」こと、2リッターエンジンを積んだワンメイクレース用のミドシップレーシングカーである(Jr.ではない)「ザウルス」用シャシーに「S800」のエンジンを搭載している。
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Sシリーズのほかにも、末裔(まつえい)であるホンダの「ビート」や「S2000」、また現役時代のライバルであり、クラブ同士も交流がある「トヨタ・スポーツ800」、そしてやはり親しいクラブである「SP/SRオーナーズクラブ」から「フェアレディ2000(SR311)」や「シルビア(CSP311)」などがゲストとして参加し、彩りを添えた。
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この日参加した、HTCC(ホンダ ツインカム クラブ)のメンバー。歴史を積み重ねてきたクラブだけにベテランぞろいだが、みなさん「S」のステアリングを握ると、とても速かった。