貴重な日産車がズラリ! 「ヘリテージコレクション」所蔵モデル
2014.05.27 画像・写真日産の座間事業所内にある、日産ヘリテージコレクション(記念庫)。およそ430台もの歴代の日産車(市販車、レーシングカー、コンセプトカーほか)を所蔵した、日産ファンの聖地ともいうべき場所である。2014年5月17日、ヘリテージコレクションに隣接するゲストホールで、日産系オーナーズクラブのメンバーを対象に、「510ブルーバード」や「フェアレディ240Z」などの往年のラリー車両開発にまつわる講演会が行われた際に、あわせてコレクションの見学会も実施された。それに同席したリポーターが、所蔵車両のなかから戦後の市販車を中心に独断で選んだ、貴重なモデルを紹介しよう。
(文と写真=沼田 亨)

およそ430台の記念車を所蔵する、座間事業所内の日産ヘリテージコレクション(記念庫)。
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およそ430台の記念車を所蔵する、座間事業所内の日産ヘリテージコレクション(記念庫)。
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1947年「たま電気自動車」。敗戦後、航空機製造を禁止された立川飛行機が製作したEV。終戦直後はガソリン不足だったため、EVにはそれなりの需要があった。床下に鉛バッテリーを敷き詰め、車重1.1トンという全長3mちょっとの2ドアセダンボディーを、4.5psのモーターで最高速30km/hまで引っ張った。航続距離は65km。その後朝鮮動乱により鉛の価格が高騰し、同時にガソリンの供給が安定したことから「たま」はガソリン自動車に転換、やがてプリンスブランドを名乗るようになる。
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1953年「ダットサン・デラックスセダン(DB-5)」。戦前型から引き継いだシャシーに、アメリカのコンパクトカーである「クロスレー」そっくりのボディーを載せた2ドアセダンが、49年に登場したDB型。DB型はDB-2、4ドア化されたDB-4、DB-5、DB-6へと発展していくが(アストン・マーティンのようだ)、これは24psを発生する直4サイドバルブ860ccエンジンを搭載したDB-5。ちなみに自動車評論家・徳大寺有恒氏が、高校時代に親から与えられた最初の愛車がポンコツのDB-2だったという。
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1952年「ダットサン・スポーツ(DC-3)」。トラックと共通だった「デラックス・セダン(DB-2)」のシャシーにオープン4座ボディーを載せた、日産で初めて「スポーツ」と名乗ったモデル。企画したのは初代「フェアレディZ」の生みの親として知られる、満104歳の今なおご健在の“ミスターK”こと片山 豊氏で、いわばフェアレディのルーツ。50台の限定生産だったが、時期尚早で半数しか売れなかったという。
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1956年「ダットサン・セダン(113)」。55年に初の本格的な戦後型として登場した110型は、小型タクシー用としてヒット作となったが、これはその改良型。エンジンは先のDB-5と同じサイドバルブ860ccだが、4段ギアボックスはフロアシフトからコラムシフトに改められた。スタイリングを手がけたのは当時日産に在籍していた工業デザイナーの佐藤章蔵氏で、初代「310ブルーバード」も彼の作品である。
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1954年「プリンス・セダン・デラックス」。国産4気筒で初めてOHVを採用した1.5リッターエンジンを積んだ、当時の5ナンバー・フルサイズの乗用車。登場は52年だが、プリンスというブランドはその年の皇太子明仁親王(今上天皇)の立太子の礼にちなんで付けられたもの。以後プリンスは皇室と縁の深いメーカーとなり、この個体は今上天皇が皇太子時代に実際に愛用していたものである。
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1957年「プリンス・スカイライン・デラックス」。クラウンと市場を争う5ナンバー規格いっぱいのセダンだった初代スカイライン。テールフィンの生えたスタイリングは当時のアメリカ車の縮小版だが、プジョーに範をとった直4 OHV 1.5リッターエンジンは2バレルキャブレターを備え、後輪には日本で初めてド・ディオン・アクスルを採用するなど、設計は進歩的だった。
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1960年「プリンス・スカイウェイ」。初代「スカイライン」をベースとする4ナンバーの商用車。この2ドアバンのほかにダブルピックアップも存在した。当時の1.5リッター級で最強の70psを発生する直4エンジンをはじめメカニズムはスカイラインと共通。なお、スカイウェイの名は2代目スカイラインの商用バンにも引き継がれたが、途中から「スカイライン・バン」に改称された。
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1959年「日産オースチンA50ケンブリッジサルーン・デラックス」。戦後、立ち遅れた乗用車生産のノウハウを学ぶべく、日産は英国オースチンと技術提携を結び、翌53年から「A40」、54年からは「A50」のライセンス生産を開始した。この個体は59年12月28日製造の最終オフライン車で、1.5リッター直4 OHVエンジンを搭載する。オースチンの国産化は、その後の日産のクルマ作りに多大な影響を与えた。
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1957年から62年まで作られた中型ボンネットトラックである初代「日産ジュニア」をベースとする消防車。初代ジュニアは「トヨペット・スタウト」や「プリンス・マイラー」と市場を争う1.75トン積トラックで、「オースチンA50」用の1.5リッター直4エンジンを搭載していた。
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1961年「日産パトロール 60」。51年に登場したヘビーデューティー4WDの2代目で、「トヨタ・ランドクルーザー」のライバル。前後リジッドアクスルを持つラダーフレームに(当時の)大型トラック用の4リッター直6 OHVエンジンを搭載するという成り立ちも、ランクルとほぼ同じである。80年にフルモデルチェンジした際に「サファリ」に改称されたが、海外向けは引き続きパトロールを名乗り、国内向けサファリの販売終了以降も、海外向けパトロールは健在である。
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1966年「ダットサン・キャブライト」。トヨタの「トヨエース」の対抗馬として58年に誕生したセミキャブオーバー型の1トン積トラックがキャブライト。これは64年に登場した3代目で、トラックのほかにライトバンも存在した。1138ccという半端な排気量の直4 OHVエンジンは、かつてダットサンのライバルだった小型車である「オオタ」の血を引くものだ。
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「日産セドリック・カスタム6」。1965年に登場した型式名130こと2代目セドリックの、上から2番目のグレード。当時は公表されなかったが、デザインはイタリアの名匠ピニンファリーナで、顔つきは同時代のピニンファリーナの作品である「キャデラック・ジャクリーヌ」や「プジョー204」によく似ている。2リッター直6 OHVエンジンを搭載。
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「ダットサン・サニー・デラックス」。応募総数850万通にも達した公募によって決定された車名を冠して1966年に誕生した、初代サニーの初期型。シンプルでクリーンなボディーは車重645kgという軽量設計で、OHVながらよく回るA10型1リッターエンジンを搭載、軽快に走る経済的な大衆車だった。型式名はB10。
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1969年「ダットサン1600ロードスター」。「フェアレディ1600」の北米仕様(型式名SPL311)で、国内で販売終了した後も輸出されていた。北米仕様には必須のオーバーライダー付きバンパーに、現地の安全基準に合致させるための不格好なウインカーおよびサイドマーカーランプを備える。ある意味貴重な生き残りではある。
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「日産チェリー 4ドアX-1」。1970年、3カ月に及ぶ、大がかりなティーザーキャンペーンの後に“超えてるクルマ”というキャッチフレーズを掲げてデビューした大衆車。欧州で小型車の主流となりつつあったエンジン横置きの前輪駆動を採用した日産初のFF車で、SUツインキャブ仕様の1.2リッターエンジンを積んだ高性能グレードのX-1は、“和製ミニ・クーパー”の異名をとった。
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1972年「日産フェアレディ240Z-G」。69年に誕生した型式名S30こと初代フェアレディZ。当初は輸出専用だったが、71年から国内販売された2.4リッター直6エンジン搭載の240Zのトップグレードである240Z-Gは、Gノーズと呼ばれる樹脂製ノーズコーンにライトカバー、オーバーフェンダーなどを備える。これは神奈川県警高速機動隊のパトロールカーとして活躍した個体で、総走行距離は37万940km。
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「ダットサン・ブルーバードU 2000GT-X」。1971年に登場した“U”のサブネームを持つ4代目ブルーバード(型式名610)に、73年に追加された2000GTシリーズ。直6エンジン搭載の2000GTに引っ張られて、「スカイライン」の人気が上昇したのを見たブルーバード販売店の要望から作られたモデルで、スカイライン2000GTと同様にノーズを延ばして2リッター直6を搭載。4気筒系とは異なる、当時の「ポンティアックGTO」に似たアグレッシブな顔つきから“鮫ブル”の俗称で呼ばれた。
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「ダットサン・ブルーバード2000G6-E・F」。1976年に世代交代した際に名称を単にブルーバードに戻した5代目(型式名810)。先代の「2000GT」に相当する2リッター直6エンジン搭載車は名称を「2000G6」に改めたが、これは後期型2000G6の最上級グレード。長い直6エンジンを積むためボディーはロングノーズ化されているが、何を血迷ったかこのボディーに1.8リッター直4エンジンを積んだ「G4」と名乗る見えっ張り仕様(?)までラインナップされていた。
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1985年「日産レパード4ドアハードトップ200X ZGX」。80年に誕生した高級スペシャルティーカーがレパード/レパードTR-X(販売系列違いの双子車)。ベースとなったのは北米向けの「マキシマ」(910ブルーバードの直6搭載ロングノーズ版)で、ボディーは2ドアハードトップと、国産スペシャルティーカーとしては初となる4ドアハードトップがあった。この個体は初代の最後期の、2リッター直6エンジン搭載車の最高級グレード。世界初となる光通信ステアリングスイッチ(オートクルーズとオーディオのスイッチをセンターパッド上に設置)を備えていた。
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「日産オースターJX」。1977年に登場した初代オースターは、2代目「バイオレット」の兄弟車だった。“Jump X”の略というJXのサブネームを持つこれは、81年にフルモデルチェンジした2代目で、「バイオレット・リベルタ」「スタンザ」とともに3兄弟となる。今となってはほとんど忘れられた存在だが、当時は世界戦略車として開発されたモデルだったのである。この3ドアハッチバックのほか、4ドアセダンもあった。
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1982年「スカイライン・ハードトップ2000ターボRS」。「ケンメリGT-R」以来のDOHCエンジンにターボをプラスし、“史上最強のスカイライン”とうたったモデル。所蔵車両のうち、市販車の大半は一般オーナーから寄贈されたものだそうだが、これは最近贈られた一台。「最高の状態で保存してもらいたい」というオーナーが自腹を切って内外装を新車同様に仕上げ、タイヤも純正と同じポテンザの新品を装着した上で入庫した。メーカーとしては、ありがたい限りである。
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1984年「日産プレーリー JW-G」。82年に“びっくり BOXY SEDAN”というキャッチフレーズを掲げて登場した、ミニバンの先駆けとなったモデル。左右のセンターピラーを取り去り、リアドアをスライド式にした1.5ボックス・スタイルが最大の特徴。この個体は前席ベンチシート、コラムシフトで3列目シートを備えた8人乗り仕様である。優れたパッケージングを実現した意欲作で、そのコンセプトは評価されたものの、開口部の多いボディーは剛性が低く、走行性能もいまひとつで、セールスは振るわなかった。
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1985年「パルサー・エクサ・コンバーチブル」。リトラクタブルライトを持つパルサー・エクサは、2代目パルサー(N12)のクーペモデル。それをベースとするコンバーチブルは、ディーラーである日産チェリー店創立15周年記念の特別仕様車として100台が限定販売された。
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「日産エクサ・キャノピー」。1986年に「パルサー」が3代目に進化する際に、エクサは独立したモデルとなった。最大の特徴は、カリフォルニアに設立されたNDI(日産デザインインターナショナル)が手がけた“着せ替えボディー”。Tバールーフを持つボディーには、ノッチバックのクーペとスポーツワゴン風のキャノピー(写真)があり、リアセクションの入れ替えによりクーペにもキャノピーにもなる。ただし日本では法規上、着せ替えは許されていなかった。
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「日産サニーRZ-1 1600ツインカムNISMO」。直線と平面を基調としたスタイリングに回帰して1985年に登場した“トラッド・サニー”こと6代目サニー(B12)の3ドアハッチバック・クーペがRZ-1で、1600ツインカムNISMOはその最強グレード。こうして見ると“そのとき、精悍”というキャッチフレーズを掲げて登場した「R31スカイライン・スポーツクーペ」の弟分という雰囲気だ。
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「日産NXクーペ」。1990年に7代目「サニー(B13)」と同時にデビューした、前出の「RZ-1」の実質的な後継モデル。一転して丸みを帯びたデザインはNDIの手になるもので、同じくNDIの作品である4代目「フェアレディZ(Z32)」のモチーフが随所に見られる。コンピューター・グラフィックスによって軟体動物のように車体が曲がりくねる姿が、往年のTVアニメ『スーパージェッター』の流星号を連想させるデビュー時のテレビCMが印象的だった。
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ここからは市販されなかったモデルで、まずは1987年の東京モーターショーに出展されたコンセプトカーの「日産MID4」(II型)。85年のフランクフルトショーでデビューした最初のMID4(Ⅰ型)は「フェラーリ308」と「ロータス・エスプリ」を掛け合わせたようなフォルムだったが、このII型は(「フェラーリ・テスタロッサ」+「ポルシェ959」)÷2という雰囲気。3リッターV6ターボをミドシップしたフルタイム4WDで、その技術は「Z32フェアレディZ」や「R32スカイラインGT-R」に結実した。
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「日産スカイラインGT-R LM公認取得用ロードカー」。先日、日産は2015年からLMP1マシンでルマンに復帰することを発表したが、こちらは1996年に「R33スカイラインGT-R」を改造した「NISMO GT-R LM」でルマンのGTクラスに参戦する際に作られたロードカー。「GTクラスに出走する車両は、最低1台公道走行可能なモデルが存在しなければならない」という奇妙な規定に沿って、たった1台だけ製作され、英国で一般車両として登録された。
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1998年「日産R390 GT1 公認取得用ロードカー」。これもレギュレーションをクリアするために作られた、日産がトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)と共同開発したルマン用マシンであるR390 GT1の公道仕様。カーボンファイバー製シャシーに、イアン・カラムが手がけたボディーを架装。エンジンはレース仕様の650psから350ps以上にデチューンされた3.5リッターV8ツインターボで、最高速度320km/h、0-100km加速3.9秒をうたった。1億2000万円で市販予定とうわさされたが、1台しか作られなかった。