第292回:350SEが運ぶのは幸福か、それとも究極の不幸か……
『星の時 4K』
2026.08.20
読んでますカー、観てますカー
ヒロインは貧しい19歳の少女
――わたしはタイピストで、処女で、コーラとホットドッグが好き――
これが映画のキャッチコピーであり、ヒロインの説明だ。『星の時 4K』というタイトルは、輝かしい瞬間を意味しているはずなのに、美しく華やかな物語が始まるとはとても思えない。しかも、ヒロインのマカベーアは貧しい19歳の少女で、天涯孤独の身だ。ならば、これは彼女が幸福になる道筋を描く映画なのだろうか。
……23時ちょうどをお知らせします……ハエがもし真っすぐに飛んだら28日で世界を1周する……照明器具ならガレリア・シルヴェストレ……キリスト生誕の1300年前に女性たちは化粧品を使っていた……23時1分をお知らせします……
映画の冒頭で流れるナレーションは、<時計ラジオ>の音声だ。時報の間に雑学とスポンサーの宣伝が挟み込まれる。マカベーアがいつもベッドで聞いている番組だ。ほかのチャンネルに変えることはない。時間がわかるうえに、いつか役に立つかもしれない豆知識が得られるのだから。
音量はなるべく小さくしなければならない。彼女が住んでいる部屋にはほかに3人の女性が同居している。ルームシェアといえばオシャレ感があるが、みんな一部屋を借りるお金がないだけだ。小さな共同の流し場とコンロがあるだけで、調度品はほとんどない。ドラマが始まる時間になると、窓際に集まって隣家のテレビを覗き見る。マカベーアは夜中に目が覚めるとベッドの下からオマルを出し、放尿しながら取っておいた骨付きチキンを食べる。
自分の不幸に気づかない
マカベーアが勤めているのは零細な卸売業者だ。彼女は雑然とした倉庫の片隅でレミントンのタイプライターを打っている。風邪気味なようで、鼻水が垂れるとブラウスの襟で拭き取る。ホットドッグを食べながら仕事をするから、書類は油まみれだ。しかも打ち間違いが多く、何度もやり直しをさせられる。そもそも1本指でしか打てないので、プロのタイピストとはいえない。あまりに使えないので社長はクビにしろと言うが、優しい上司のハイムンドさんがかばってくれている。
生まれてすぐ両親が亡くなり、叔母に引き取られた。どうやらあまり親切に育てられなかったようで、まともに教育を受けていない。その叔母も死んでしまって一人で暮らし始めた。運良くタイピストの仕事を得たが、読み書きもままならないから適職とは思えない。社長には「仕事ができないうえに顔もかわいくない」とひどいことを言われた。山盛りの不幸を背負って生きてきたように見えるが、マカベーア自身は気づいていない。比較対象となる「普通の幸福な人生」のイメージがないから、自分がどの位置にいるのかが分からないのだ。
同僚のグロリアは、仕事をバリバリこなして上司から頼られる存在だ。肉感的なボディーを誇り、派手な男関係を楽しんでいる。彼女はマカベーアに「ホットドッグとコーラはやめて肉を食べろ」と諭す。胸と尻を大きくすれば男が寄ってくるというのだ。出会いを求めて街を歩いているうちに、マカベーアにも恋人ができた。オリンピコ・ジ・ジェズス・モレイラ・シャーヴェスという男で、金属加工の仕事をしている。彼女は天にものぼる気分だが、観客は戸惑いを覚えるだろう。オリンピコは、お世辞にもイケメンとはいえない。犬歯を金歯にして髪に油を塗ってなでつけている。 “キモい”という言葉がピッタリだ。
問題は見た目だけではない。マカベーアが<時計ラジオ>で聞きかじった知識を披露しても冷たくあしらい侮辱で返す。コーヒーをおごるだけで恩に着せようとする。「自分は頭がいいからいつか国会議員になる」と妄想を口にする。マカベーアが「そうなの?」と聞くと、「俺の言うことが信じられないのか!」とキレる。分かりやすいクソ野郎だ。
ハンサムな白人が乗るクルマで運命が反転
身寄りがなく、学がなく、ろくに仕事ができず、いつクビになるか分からない。ようやくできた恋人にも粗雑に扱われている。不幸の見本市みたいだ。ならば、この映画は薄っぺらいお涙ちょうだいのストーリーなのだろうか。確かに、マカベーアの人生は、とてつもなく苛酷で悲惨だ。マリリン・モンローのような映画スターになるという彼女の夢は、実現しそうにない。しかし、運命は反転するだろう。幸運を運んでくるのは「メルセデス・ベンツ350SE」だ。このクルマは富の象徴であり、金髪で青い瞳のハンサムな白人が乗っている。マカベーアはついに幸福を手に入れるのだ……。
いやいや、それではあまりに通俗的なお姫様物語ではないか。メルセデス・ベンツには2つの意味が重ねられている。巧妙な映画的仕掛けが施されているのだ。対極にある現実と幻影を同時に見せられ、観客は感情を大きく揺さぶられることになる。
この映画の原作は1977年に発表されたクラリッセ・リスペクトルの小説である。1985年にスザーナ・アマラウ監督が映画化し、日本では40年の時を経て初公開されることになった。映画には、小説で重要な役割を持つ人物が登場しない。語り手のロドリーゴ・S・Mだ。リスペクトルの小説では、因果関係が自明のものとして前提されることはない。ストーリーは一方向には進まず、語ることの困難が叙述を停滞させる。『星の時』は単行本で165ページの分量だが、ヒロインらしき人物が顔を見せるのは36ページになってからだ。彼女の名前がマカベーアであると明かされるのは78ページである。
ロドリーゴは不幸な少女について語ることをためらい、他人の人生を言葉にすることの不条理を問いながら記述していく。メルセデス・ベンツが現れてからも、決定的な出来事が起きるのを押し留め、結論を引き延ばそうとする。文学作品固有の技法が使われているのだ。この映画は、言葉でしかできない表現を映像に移し替えるというアクロバティックな課題に挑んでいる。映画を鑑賞した後に、ぜひ原作小説を読んでほしい。言語と映像という異なるメディアで用いられた達人の技法を比較対照する楽しみは格別である。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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