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したたかなルノーの象徴
渦中の人、カルロス・ゴーン氏を語る

2018.12.03 デイリーコラム 山口 京一
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信頼できる情報は公式発表だけ

私は「有罪と立証・判定されるまでは推定無罪」なる“法善説”を信じています(もっとも、今の日本で通用するか……)。また、名前の後に“容疑者”と付けるメディアの慣習も嫌いです。

カルロス・ゴーン氏は、日産の、次の株主総会までは同社の取締役です。
そして、フランス時間2018年11月20日のルノー取締役会公式発表(英語版)の一部拙訳を掲載すると、

「日本におけるカルロス・ゴーン氏に対しての法的手段について、フィリップ・ラガエット主席独立取締役を議長として取締役会を開催した。現段階において、当取締役会はゴーン氏に対し、日産と日本法務権威機関が収集したとする証拠について言及することができない」
「ゴーン氏は、臨時的に行動不能にされているが、会長、CEO に留任する」
「当取締役会は、ルノー会長・CEO代行を任命し、日産に対し、アライアンス精神に基づき、ゴーン氏に関し内部調査で得た情報を提供するよう求める決定をした」

現状では、これがルノー側の公式な見解のすべてです。

さて、編集部からはルノーと日産の本件に対する対応、アライアンスの今後について書くよう求められていますが、両社の公式発表以外に信用に足る情報はありません。無論、まだ法務権威当局からの“公表”は望むべくもありません。マスメディアには恐らく“関係者”や“周囲”がヒントや情報を与えているのでしょうが、公式には依然として「差し控えさせていただきます」なる今年の流行文句を思い出させる回答にとどまっています。現状では、何を言っても推測、妄想の域を出ないでしょう。

ただ、もし日産とルノーの関係が本当に流動的となったのなら、ルノー(とフランス)は幾多の波乱を乗り越え、生き延び、機会(日産、サムソンなど)を捉え、切るは切って現在に至った賢者であり猛者です。日産は政治、外交、経済、経営、技術の全知全能を尽くし、冷や汗を含む汗を流し、取り組む覚悟が必須でしょう。

元日産自動車会長のカルロス・ゴーン氏。
元日産自動車会長のカルロス・ゴーン氏。拡大

波乱が鍛えたルノーのしたたかさ

ルノーの歴史はまさに波乱万丈と呼ぶにふさわしいものです。

創設者であり第2次大戦直後までトップの地位にあったルイ・ルノーは、第1次大戦で猛威を振るったFT戦車と砲弾の大量生産などの功績で、フランス最高勲章「レジオンドヌール」を受勲します。ところが、第2次大戦でフランスはあえなくナチス・ドイツに敗退。和平工作でできたのが傀儡(かいらい)のヴィシー政権でした。ルイ・ルノーは、パリ郊外に位置するビヤンクール工場の設備と人員をドイツへ移転しようとする圧力に抗する手段として、独軍用トラックなどを大量生産します。結果、ビヤンクールは英空軍の最大標的のひとつとして爆撃されますが、設備、人ともにフランスにとどまりました。しかし、終戦直後にルイ・ルノーは敵国協力者として告発され、病身で収監されます。付属病院には移されますが、裁判前に死去してしまいました。フランス政府はルノー社を没収、国営化し、ルイ・ルノーから勲章まで取り上げます。

ルノーが民営化されたのは1990年代のことで、そのとき会長兼CEOを務めた辣腕(らつわん)がルイ・シュヴァイツァーでした。官僚、首相側近からルノーの代表へと転じた人物です。彼も官僚期に2度告訴されましたが、1度は無罪。政敵の電話を盗聴したという件については、罰金を科されただけでした。このシュヴァイツァーがルノーの改革のために起用したのが、カルロス・ゴーン氏です。ゴーン氏は業績不調の工場閉鎖、人員削減、製品開発合理化案を提示、実行します。当時はフランス語で“ル・コストキラー”なる、“コストカッター”より怖いニックネームで呼ばれたといいます。

ルノー初のモデルとなった「タイプA」(1898年)。
ルノー初のモデルとなった「タイプA」(1898年)。拡大

質問を避けず、即座に回答する

その後、ゴーン氏はルノーと資本提携を結んだ日産を再建すべく、1999年にCOOとして送り込まれます。それからの日産は変化の連続でした。

まず印象的だったのが、神奈川某所で行われた「すべて開発中のクルマを見せよう」という趣旨のイベントです。新型車は枯渇状態でしたが、開発部門は動いている。モックアップ状態でもとにかく見せようという企画で、キレイごとでない、なまなましいクレイモデルやモックアップなどが展示されていました。会場からの帰途、バスに同乗されたのが塙 義一前社長で、ふっきれた表情でしたが、「存続のための苦渋、唯一の選択」と話されていたのが記憶に残っています。

取材などで、直接ゴーン氏と言葉を交わす機会もありました。そのほとんどは日産再建期のことです。最初は1999年に行われた箱根でのラウンドテーブルで、リストラの発表直前という時期だけに、緊張した雰囲気の中で議論が沸騰しました。会議室を出てからもメディアからの言葉はやみませんでしたが、質問を避けず、即座に反応するゴーン氏を私は驚異的な人物と受けとりました。

当時の写真を見ると、技術系役員のパトリック・ペラタ氏が写っています。ちょっと頼りなく見えますが、後にルノーで大成します。彼のほかにも、カルロス・タバレス現PSA CEOや、アンディ・パーマー現アストンマーティン社長兼CEOなど、ゴーン氏のまわりからは多数の逸材が生まれました。

カルロス・ゴーンCOO(左)と塙 義一社長(1999年当時)。
カルロス・ゴーンCOO(左)と塙 義一社長(1999年当時)。拡大
1999年の箱根ラウンドテーブルにおいて、場外論議におよぶ筆者(右から2番目)とカルロス・ゴーン氏(左端)。ゴーン氏の右奥に見えるのがパトリック・ペラタ氏。
1999年の箱根ラウンドテーブルにおいて、場外論議におよぶ筆者(右から2番目)とカルロス・ゴーン氏(左端)。ゴーン氏の右奥に見えるのがパトリック・ペラタ氏。拡大

「悪い人がいれば、すぐに入れ替える」

もうひとつ強く印象に残っているのが、やはり日産再建期にパシフィコ横浜大講堂で行われた、自動車技術会春季大会のQ&Aです。当初は基調演説の予定でしたが、ゴーン氏は演説は抜きにして会場からの質問、疑問に答える方式を選びました。このとき私はモデレーターを務めていたのですが、途中で会場から汚物(枯れた花束)が演壇に向け投げつけられます。しかし、「どうしますか?」と聞く私に対し、ゴーン氏は泰然(たいぜん)としていました。「何かあったかね。次の質問に行こう」。このときもやはり、2万人の人員整理や、工場閉鎖についての質問が出たのを覚えています。

最後にゴーン氏に会ったのは、2015年のデトロイトモーターショー(北米国際自動車ショー)での取材です。メーカー側はラウンドテーブルという形式を意図していたようですが、人数が多く、結局は演壇と客席という位置関係での取材となりました。先に述べた自動車技術会同様、演説なし、質疑応答のみという形です。ゴーン氏は壇上から降り、質問者の前に立ち、視線を合わせて質問者に直答していました。そしてその中に、今から思うと非常に皮肉な問答が含まれていました。

問いは、当時大きなスキャンダルとなっていた中国・東風汽車の収賄についてどう考えているのかというもの。この事件では、東風日産の幹部が汚職容疑で取り調べを受けていました。ゴーン氏はこのように回答しました。

「いろんな会社が捜査を受けているようだが、日産も随時対応する。何かあれば、即対応する。悪い人がいれば、すぐに入れ替える」

(文=山口京一/写真=山口京一、日産自動車、ルノー、webCG/編集=堀田剛資)

物議をかもした自動車技術会横浜大会の後、カルロス・ゴーン氏から贈られたサイン入りの著書。
物議をかもした自動車技術会横浜大会の後、カルロス・ゴーン氏から贈られたサイン入りの著書。拡大
初代「日産フーガ」の発表会にて。ゴーン氏は「『G35(日本名:スカイライ)』はアメリカで大成功だが、『Q』(大型セダン)は苦戦してきた」と率直に認めた。
初代「日産フーガ」の発表会にて。ゴーン氏は「『G35(日本名:スカイライ)』はアメリカで大成功だが、『Q』(大型セダン)は苦戦してきた」と率直に認めた。拡大
2015年のデトロイトモーターショーでの取材会にて。ゴーン氏は演壇を降り、質問者の前に歩み寄って問いに答えた。
2015年のデトロイトモーターショーでの取材会にて。ゴーン氏は演壇を降り、質問者の前に歩み寄って問いに答えた。拡大
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