第940回:宮川秀之氏を悼む ―在イタリア日本人の誇るべき先達―

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イタリアンデザインを日本へ

1960年代からイタリアを拠点に活躍した実業家で、イタルデザインの設立に貢献した宮川秀之(みやかわひでゆき)氏が死去した。88歳だった。

宮川氏は1937年群馬県前橋市に生まれた。早稲田大学文学部在学中に、世界一周旅行を同郷の茜ヶ久保徹郎氏(現・ローマ日本語補習授業校校長)と計画。知己を頼ってヤマグチ製125ccバイク2台の提供を受け、1960年4月に日本を出発した。香港・インド・中近東を経由して到達したローマで、宮川氏は毎日新聞社支局でオリンピック報道の業務にあたった。後年、創刊間もない『カーグラフィック』誌の現地通信員として、欧州自動車事情の配信を開始する。

宮川氏の人生にとって大きな転機となったのは、1960年秋のトリノ自動車ショーだった。「プリンス・スカイライン スポーツ」の脇で、今日でいうところのコンパニオンをしていたイタリア人女性マリーザ・バッサーノ氏と知り合う。日本語を熱心に学習するとともにランチア社の役員を父にもつ彼女との出会いは、宮川氏に国際結婚とイタリア永住を決意させた。

以来、トリノを拠点とした宮川氏の自動車業界における活躍が始まる。当時ベルトーネ(のちにギア)のチーフデザイナーを務めていたジョルジェット・ジウジアーロ氏の才能に着目。彼を東洋工業やいすゞと結びつけた。続いてジウジアーロ氏の独立も支援し、1967年、現在のイタルデザインの原点であるイタルスタイリング(法人登記名SIRP)の設立に尽力する。同社ではスズキをはじめとするさらなる日本企業の顧客開拓を手がけるとともに、ヒョンデとの渉外担当としても活躍し、自動車デザイン開発会社では後発であった同社の成長に貢献した。

その後は自身の新たなビジネスに、より注力するようになる。まず1970年にスズキのイタリア輸入元となり、同ブランドを成功に導いた。同時に、スポーツ選手のマネジメント会社「コンパクト」も設立。同社を通じてジャン・アレジ氏や角田裕毅氏など数々のF1ドライバーをサポートした。

私生活ではマリーザ氏のキリスト教精神に基づいた大家族主義を実践。4人の実子と3人の養子、さらにアフリカの孤児4人を育てた。理想の教育環境を手に入れるべく、一家でトリノを離れアルプスを望むサン・ピエトロ村に移住。続いて1992年には、中部トスカーナ州スヴェレートの農園に住まいを移した。以来、高品質ワインづくりに携わるとともに、日本の不登校や引きこもりに悩む青少年の支援活動にあたっていた。2006年にはイタリア政府から外国との友好に貢献した人物に与えられる「連帯の星 大将校勲章」を受賞した。

いすゞ藤沢工場で、「117クーペ」と宮川、マリーザ、ジウジアーロの各氏。1972年頃。(出典:日本自動車殿堂)
いすゞ藤沢工場で、「117クーペ」と宮川、マリーザ、ジウジアーロの各氏。1972年頃。(出典:日本自動車殿堂)拡大
ヤマグチ号と青年時代の宮川氏。(出典:日本自動車殿堂)
ヤマグチ号と青年時代の宮川氏。(出典:日本自動車殿堂)拡大