自動車を取り巻く環境がわずか1年で激変 激動の「1970年」をクルマで振り返る
2020.04.13 デイリーコラム万博が示した明るいビジョンの陰で
新型コロナ問題でそれどころではなくなってしまったが、先月で大阪万博(日本万国博覧会)が開幕してからちょうど50年、半世紀が経過した。「人類の進歩と調和」というテーマを掲げた、1970年代の幕開けにふさわしい一大イベントだった大阪万博。アジア初開催となる万博の会場で提示されたのは、輝かしい未来のビジョン。夢に見た“スペースエイジ”の到来に期待が高まった。
そのいっぽうで、1970年は高度経済成長の生んだひずみのひとつである公害問題が、一気に顕在化した年でもあった。光化学スモッグの発生をはじめとする大気汚染、有鉛ガソリンによる鉛中毒、河川や港湾の有害ヘドロ問題などなど。そうした現実を前に、「今日よりも明るく豊かな明日ではなく、もしかしたら暗く厳しい未来が訪れてしまうのでは」という不安も頭をもたげてしまったのである。
未来に対する希望と不安の同居は、自動車社会にもそのまま当てはまった。日進月歩の勢いで高性能化していた1960年代の流れを受け継ぎ、新時代に向けたモデルも続々と登場していた。しかし、前述した大気汚染の大きな要因が自動車の排出ガスであるのは明らかだった。また“交通戦争”と言われた交通安全問題も深刻だった。1万6735人というこの年の交通事故死者数は、史上最悪の記録として今も残っている。ちなみに昨2019年は過去最少の3215人だから、半世紀の間に5分の1未満に減ったことになる。
自動車を取り巻く環境の転換期
公害および交通安全問題という、自動車社会が抱えるネガティブな側面が急速に表面化したこの年には、数年後に昭和48年規制や50年規制として実施されることになる自動車排出ガス対策基本計画が取りまとめられ、ガソリン無鉛化の早期実現も推進されることになった。新型車には同年9月1日から、継続生産車は翌1971年1月1日から、ブローバイガス還元装置の装着が義務づけられ、従来はハイオク仕様のみだったDOHCやツインキャブユニット搭載の高性能モデルにもレギュラー仕様が設けられるなど、初期段階の排ガス対策も始まった。
また、秋に予定されていた日本のモータースポーツ界における最大のイベントである日本グランプリの開催が中止された。公害安全対策に注力することを理由に日産が不参加を表明、トヨタが同調したことを受けての結果である。唐突ではあったが、世のクルマ好きにとっては、どこかひとごとのようだった公害問題を現実としてとらえるきっかけとなったといえる。
海の向こうのアメリカでは、この年に世界初の排ガス規制法であるマスキー法が可決された。ガソリンの無鉛化も進み、夏から秋にかけて発表された1971年型のモデルでは、ハイオクを必要とするのはわずか数車種のみとなった。多くのモデルではレギュラー対応とすべくエンジンが低圧縮化されたため、必然的にパワーダウン。逆を言えば、ほとんどの車種ではストレスフリー時代の最終年度となった1970年型が過去最強のパワーを誇っていたのである。
大阪万博や公害問題のほかにも、よど号ハイジャック事件や三島由紀夫割腹自殺といった、後世に語り継がれる衝撃的な出来事もあり、話題には事欠かない年だった1970年。次ページからは、自動車界にとってもターニングポイントとなったこの年にデビューした、代表的なモデルを紹介しよう。
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エンジニアリング/マーケティングに見る初の試み
【超えてなかった?】
日産チェリー
1970年代に向けた日産の意欲作だったチェリー。大規模なティザーキャンペーン(少しずつ見せることで興味をそそる)の後に、「超えてるクルマ」というキャッチフレーズを掲げてデビューした。ティザーキャンペーン自体に特に新味はなかったが、チェリーの場合は覆面車のテスト風景をフィーチャーした新聞広告のビジュアルや、「美しい日本から生まれる『新しい可動空間』その名もチェリー」という大仰なコピーなどによって期待感をあおった。
いざ登場したチェリーは、日産のボトムラインを担う1リッター級のコンパクトカーで、日産初となるFF車だった。FF機構は欧州で広まりつつあったエンジン横置き方式を導入していたが、今日の主流であるエンジン、ギアボックス、デファレンシャルを直線上に並べたジアコーザ式ではなく、エンジンの下にギアボックスとデフを置く、「Mini」に始まるイシゴニス式だった。ちなみに日産は後継となる「チェリーF-II」や初代「パルサー」(輸出名はチェリーのまま)にもイシゴニス式を継承していたが、1981年に実施されたパルサーのマイナーチェンジに際してジアコーザ式に転換した。
ボディーはセミファストバックの2/4ドアセダン。開発当初はハッチバック案もあったものの、当時の日本では「ライトバンみたい」と敬遠される恐れがあったため見送られたらしい。総じてチェリーは日本では目新しい、欧州調の合理的なコンパクトカーだったが、「超えてるクルマ」というほどでもなかった。ティザーキャンペーンであおりすぎた結果、自らハードルを上げてしまった感は否めない。
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【日本初のコンセプト】
トヨタ・カリーナ/セリカ
「カローラ」と「コロナ」の中間に位置する2/4ドアセダンの「カリーナ」と、2ドアハードトップクーペの「セリカ」。外見からはまったくの別車種に思えるが、その実両車はプラットフォームを共有しており、こうした商品企画は日本では初めてだった。
前:ストラット/コイルの独立懸架、後ろ:4リンク/コイルの固定軸というサスペンションを備えたシャシー、OHVヘミヘッド(「セリカ1600GT」のみDOHC)の1.4/1.6リッターエンジン、FRの駆動方式など、設計は両車ともにオーソドックス。目新しかったのは、それまでごく一部の高性能車のみに使われていた5段MTを1.6リッター全車に用意したこと。4段MTに高速走行に適したオーバートップの5速を加えただけだが、「5段=高性能かつ高級な機構」というイメージを抱いていた当時の一般ユーザーには訴求力があり、これ以後5段MTが一般化していく契機となった。
ややスポーティーなキャラクターを与えられた実用的なセダンであるカリーナに対して、セリカは日本初のスペシャルティーカー。1964年に誕生して大ヒットした「フォード・マスタング」に始まる、実用車のシャシーにスポーツカー風のスタイリッシュなボディーを載せたモデルである。既存の「コロナ ハードトップ」や「ブルーバード クーペ」のようなセダンをアレンジしたクーペモデルとは違って、まったく異なるボディーをまとっているところが新しかった。
セリカが導入した、“フルチョイスシステム”と呼ばれる販売方法も日本初の試みだった。これもマスタングに倣ったものだが、外装、内装、エンジン、ギアボックスおよびオプションをリストの中から選択し、自分好みのモデルを仕立てる方法である。
このジャンルのモデルは、マスタングのヒットを受けて世界中でフォロワーが誕生したのだが、フォードの欧州版スペシャルティーカーである「カプリ」の登場は本家より5年遅れの1969年。セリカはその翌年の70年にデビューしたのだから、タイムラグはわずかだったわけだ。
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時代を表す、時代に翻弄された2台
【うたかたの夢】
マツダ・カペラ
1960年代にマツダが社運を賭して開発、実用化したロータリーエンジン。1967年に世界初の2ローターロータリーエンジン搭載車である「コスモスポーツ」を発売し、翌68年には主力車種だった大衆車の「ファミリア」にもロータリー搭載車を設定。マツダは“ロータリーゼーション”と称して、ロータリーエンジンの普及を推進していた。
「カペラ」は企画段階からロータリーエンジンの搭載を想定した初の実用車。マツダとしては初めて「トヨペット・コロナ」や「ダットサン・ブルーバード」に正面からぶつかるミドル級で、エンジンは573cc×2の12A型ロータリーと1.6リッターSOHCのレシプロの2本立てだった。
発売当初の広告のヘッドコピーは「70年代に車の主流はロータリー車に変わる」。これはあながちマツダの思い入れだけではない。軽量コンパクトで、スムーズかつパワフルというロータリーのメリットに注目した国内外の少なからぬメーカーが、その時点では研究開発を行っていたのである。
実用的な4ドアセダン/2ドアクーペで、ロータリーを除けばその設計は平凡だったが、最大の特徴であるロータリー搭載車のパフォーマンスは、当時の日本車中トップクラス。『CAR GRAPHIC』誌のテストでは最高速度187.5km/h、0-400m加速16.8秒を記録したが、これは価格が2倍近い「日産スカイライン2000GT-R」や、カペラの廉価グレード3台分に匹敵する「BMW 2002tii」とほぼ等しかった。いっぽう平均燃費はリッターあたり5.56km。卓越した動力性能の代償としてはやむなしといった感じだったが、3年後に石油危機がぼっ発すると、ロータリーを取り巻く状況は一変してしまうのである。
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【微妙な存在】
フォルクスワーゲンK70
フォルクスワーゲン(以下VW)初の水冷エンジン搭載車にして、初のFF車。とはいえ開発したのはVWではなく、ロータリーエンジンのパイオニアであるNSUである。ロータリーを積んだ「Ro 80」の下位に位置するレシプロエンジン搭載車として1969年にリリース予定だったが、前後してNSUがアウトウニオン(アウディ)と合併してVW傘下となったため、VWやアウディの同級車との競合を避けるべく、その発表は保留されていた。だが、VWのフラッグシップだった空冷リアエンジンの「411」の評判が芳しくなく、いっぽう「パサート」に始まる新世代FF車のデビューまでは間があったため、いわばつなぎ役としてVWブランドでK70を発売したのである。
6ライトの4ドアセダンボディーは、全長×全幅×全高=4420×1685×1450mm、ホイールベース=2690mmというサイズ。前:ストラット、後ろ:セミトレーリングアームの4輪独立懸架を備えたシャシーに、1.6リッター直4 SOHCエンジンを縦置きして前輪を駆動した。
自動車メディアからは、居住性に優れ、乗り心地と操縦性のバランスの取れた好ましいファミリーサルーンと評された。しかし、自慢のロータリーエンジンの信頼性不足により悪評が立っていた兄貴分Ro 80の影響もあってか、セールスは振るわなかった。世界有数の大メーカーであるVWが、微妙な状況にあったことを象徴するようなモデルである。
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継承されるフランス車の文化とアメリカの曲がり角
【大衆向け魔法のじゅうたん】
シトロエンGS/SM
「2CV」をベースにした「アミ」と上級モデル「DS」の間の、大きなギャップを埋める実用的なファミリーサルーンでありながら、高度なメカニズムによるクラスを超えた乗り味を提供し、この年の欧州カー・オブ・ザ・イヤーに輝いた傑作車。
空力的ながら広い室内空間を持つファストバックのボディーは、全長×全幅×全高=4120×1608×1349mmとライバルたちよりひとまわり大きい。シャシーにはDS譲りの窒素ガスと鉱物性オイルによるハイドロニューマチックサスペンションを採用して、小型車とは思えない絶妙な乗り心地と操縦安定性を両立し、車高調整装置やパワーブレーキも備わっていた。オーバーハングに搭載され前輪を駆動するエンジンは、往年のフランス車らしく車体に対して小さめの1015ccの空冷フラット4。アンダーパワーという声に応えて後に1.2リッター、次いで1.3リッターに拡大され、またロータリーエンジン搭載車も追加設定された。
同年にシトロエンは「SM」もリリースしている。いかにもシトロエンらしい前衛的かつ空力的なデザインながら、ブガッティやドラージュといった戦前のフランス車にも通じるデカダンスな雰囲気をも漂わせた高級グランツーリスモである。
全長4.9m近いテールゲート付きのボディーを動かすパワーユニットは、当時シトロエンが提携していたマセラティが開発した総アルミ製の2.7リッターV6 DOHC。これをフロントミドシップで搭載して前輪を駆動し、公称最高速度は220km/h。自動車専門誌におけるテストリポートでも確実に200km/hを超えており、世界最速のFF車と称された。
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【遅れてきた挑戦者】
ダッジ・チャレンジャー
2008年に登場したリメイク風の現行モデルが、数少ないマッスルカーとしていまだ健在の「チャレンジャー」。その初代モデルは、フォード・マスタングや「シボレー・カマロ」などに対抗するモデルだったが、デビューはマスタングの登場から6年近くたった後。いわば“遅れてきたポニーカー”だった。
全長×全幅×全高=4860×1955×1325mmという、兄弟車の3代目「プリマス・バラクーダ」よりわずかに大きいボディーは、2ドアハードトップクーペおよびコンバーチブルの2種類。エンジンは直6もあるがV8主体で、ハイパフォーマンスモデルの「R/T」(Road/Trackの略)には、335PS(SAEグロス)を発生する6.3リッターのほか、7.2リッター(375PS/390PS)、そしてクライスラー伝統の高性能ユニットであるヘミヘッドの7リッター(425PS)が用意された。また、およそ2400台だけつくられたトランザムシリーズ用ホモロゲーションモデルの「T/A」(Trans Amの略)も存在する。
だが2ページ目に記したとおり、翌1971年モデルからは排ガス対策が始まったため、チャレンジャーは初年度のモデルが最も強力で、以後は年を追ってパワーダウン。それとシンクロしてセールスも低下し、1972年にはコンバーチブルと高性能版のR/Tが廃止され、74年には生産終了となった。その輝きが一瞬であったがために、チャレンジャーの価値はより高まったとも言えるのだ。
(文=沼田 亨/写真=本田技研工業、トヨタ自動車、日産自動車、マツダ、フォルクスワーゲン、グループPSA、FCA、CG Library、沼田 亨/編集=堀田剛資)

沼田 亨
1958年、東京生まれ。大学卒業後勤め人になるも10年ほどで辞め、食いっぱぐれていたときに知人の紹介で自動車専門誌に寄稿するようになり、以後ライターを名乗って業界の片隅に寄生。ただし新車関係の仕事はほとんどなく、もっぱら旧車イベントのリポートなどを担当。