
『CARグラフィック』創刊号(1962年4月号)の巻頭に掲載された「ジョバンニ・ミケロッティ」からのメッセージ。ミケロッティは21年生まれ、37年に16歳でスタビリメンティ・ファリーナ(ピニンファリーナの長兄ジョバンニの工場)に入社、デザインとコーチワークを学んだ。49年に独立、同社のほかにギア、ヴィニャーレ、アレマーノなどにもデザインを供給したのち、60年に自らの名を冠したスタジオを設立、多くの作品を残した。このメッセージからもわかるように親日家でもあった。80年没。
-
『CARグラフィック』創刊号(1962年4月号)の巻頭に掲載された「ジョバンニ・ミケロッティ」からのメッセージ。ミケロッティは21年生まれ、37年に16歳でスタビリメンティ・ファリーナ(ピニンファリーナの長兄ジョバンニの工場)に入社、デザインとコーチワークを学んだ。49年に独立、同社のほかにギア、ヴィニャーレ、アレマーノなどにもデザインを供給したのち、60年に自らの名を冠したスタジオを設立、多くの作品を残した。このメッセージからもわかるように親日家でもあった。80年没。
-
『CARグラフィック』1964年8月号に掲載されたプリンスのデザイナー、井上猛氏によるイタリア留学記。井上氏は59年11月から61年7月までイタリアに学び、とくに60年8月から帰国までの約1年間はフランコ・スカリオーネのスタジオでデザイン・スタディに打ち込んだという。スカリオーネは、アルファ・ロメオ1900をベースとしたBATシリーズや、同じくアルファのジュリエッタ・スプリントや同 SSのスタイリストとして知られる空力の第一人者である。
-
『CARグラフィック』1963年12月号の表紙を飾った、スカリオーネと井上猛氏のコラボレーションによる「スカイライン1900スプリント」。スカイラインスポーツと同じグロリア用シャシーに流線型のボディを載せたもので、同年の第10回全日本自動車ショー(TOKYO MOTOR SHOW)に参考出品された。
-
スカイラインスポーツ・コンバーチブル。60年の第42回トリノショーに出品されたアレマーノ製のプロトタイプで、イタリアで撮影されたカットであろう。
-
同じくアレマーノ製のクーペ。この個体は、現在も日産の座間事業所(旧座間工場)にある通称「記念庫」に保存されている。
-
アレマーノ製コンバーチブルのインテリア。インパネは生産型とは異なり、メーターは速度計と燃料/水温などの集合計のみ。ステアリングホイールはトリノショー出展時にはナルディ製ウッドリムの3本スポークが装着されたが、この撮影時点ではグロリア用がそのまま残されている。
-
トリノショー会場におけるコンバーチブル。中央左側の眼鏡の紳士は、当時のグロンキ伊大統領とのこと。
『第43回:『トリノの風薫る』プリンス・スカイラインスポーツ(1962-63)(その2)』の記事ページへ戻る