第78回:「死の谷」が語りかける〜もうひとつの足尾公害事件〜(その7)(矢貫隆)
2005.11.30 クルマで登山第78回:「死の谷」が語りかける〜もうひとつの足尾公害事件〜(その7)(矢貫隆)
■レモン果汁に匹敵する酸性の土壌
グラススキーのゲレンデを想わせる松木村跡の林のなかに、直径10cmほどの若い桜の木が立っている。見覚えのある木はそれだけであり、生えている木の種類は少ないように見えた。
10数年前、この地を調査した谷山鉄郎(三重大学生物資源学部教授)が、彼の著書『恐るべき酸性雨』のなかで松木村跡の植生について次のように書いている。
「重金属による土壌汚染に強いシダ植物のヘビノネゴザが石垣の間によく繁っていて、大きな植物といえば、ただマメ科のアカシアの木がわずかに枝をたれているだけです」
絵はがきのような風景の土地は、その実、100年前の酸性雨による土壌汚染を色濃く残したまま、雑草で表面を取り繕っただけの緑色をした荒れ地だったのである。
酸性雨の発生原因は、足尾に限っていえば精錬所の煙突から吐きだされた硫黄酸化物(亜硫酸ガス)であった。
高層煙突を使うことで着地濃度を低減させ、あるいは脱硫設備を整えて汚染物質の排出を抑えることは可能なのだが、何せ時代は明治、煙突の高さは30mほどしかなく、汚染対策は皆無に等しかった。
脱硫施設の整備にしても1956年(昭和31年)まで待たねばならず,その結果、松木村を含む足尾の山々に酸性雨が降り注いだのだった。
大気中を漂う硫黄酸化物の一部は雨に溶け込んで土壌に降り注いで吸着(湿性沈着)し、残る一部はガス状のまま乾性沈着する。果して、100年前に松木村に降った酸性雨のpH値(注)がどの程度だったか正確には知りようもないが、それでも土壌のpH値からおおよその推測することは可能だ。
「公式発表はしていない」と断ったうえで、栃木県日光治山事務所は足尾周辺の土壌のpH値は5だったといい、土壌が酸性化している事実を教えてくれた。また、前出の谷山鉄郎教授は松木村跡の土壌を測定し、その結果、pHは3〜4だったと報告していた。
「pH3〜4というと、食酢やレモン果汁に匹敵する数字ですよね」
そういうことになる。つまり、100年前の松木村には、少なくともレモン果汁にも等しい酸性の雨が、湿性あるいは乾性に姿を変えながら降り続いていたといっていい。
「その汚染が今も消えていない」
そういうことだね。
■100年前と今現在
明治に生きた松木の人々が、1200年もの歴史ある村を捨てたのは当然だった。農作物の育成が不可能となった松木村が姿を消したのは当然だった。
足尾の山々から木が消え草が消え、雨のたびに土砂が流されて岩肌を露にしたのも、その結果、下流域に洪水を起こし、あるいはそれを防止するために巨大な砂防ダムを造り、堆積した石で河原の位置がせり上がったのも、すべて当然の結果だったのだ。
「酸性雨、恐るべし……ですね」
『枯れゆくブナの森』で書いたように、酸性雨は今も降っている。足尾精錬所による煙害は谷すじに沿って周囲の山々に降り注いだけれど、現代の酸性雨は足尾のそれとは比較しようもなく広い範囲で降っていて、すでに森や湖に大きな被害をもたらしている。
「亜硫酸ガスではなくて、現代の酸性雨の原因物質は主にディーゼル排ガス。それなのに、それによる大気汚染を効果的に押し止める策が見いだせていない。何だか、煙害に有効な対策を講じることができなかった足尾精錬所が、それでも操業を止めようとしなかったという事実に似てる気がするのは僕だけでしょうか……」
残念ながら、そうなのかもしれないな、A君。(この回おわり)
(文=矢貫隆/2005年11月)
(注)
水素イオン濃度はpH(ペーハー)で表され、水の酸性やアルカリ性は、この水素イオン濃度で決まってくる。pHの範囲は0〜14。中性はpH7で、蒸留水がそれである。そしてpH1の差は水素イオン濃度の10倍の違いを表し、2の違いは100倍の違いを表している。いっぽう、大気中には、水に溶けると酸性を示す二酸化炭素が含まれており、そのために雨は、自然な状態でもpHが5.6〜5.7の弱酸性を示す。そこでpH5.65を基準として、それ以下の数字を示す雨や雪を国際的に酸性雨と呼んでいる。

矢貫 隆
1951年生まれ。長距離トラック運転手、タクシードライバーなど、多数の職業を経て、ノンフィクションライターに。現在『CAR GRAPHIC』誌で「矢貫 隆のニッポンジドウシャ奇譚」を連載中。『自殺―生き残りの証言』(文春文庫)、『刑場に消ゆ』(文藝春秋)、『タクシー運転手が教える秘密の京都』(文藝春秋)など、著書多数。
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