不撓のインディペンデントチーム F1の名門「ウィリアムズ」へ贈るエール
2020.07.06 デイリーコラムチーム売却の危機?
「F1のウィリアムズに身売りの危機」との報に、「まさか」と驚くファンも「やっぱり」と訳知り顔でうなずく向きも両方いたはずである。
2020年5月末、F1チームなどで構成されるウィリアムズ・グランプリ・ホールディングズ(WGPH)は、2019年度の決算で1300万ポンド(約17億2100万円)の損失を計上したと発表。今後のために新たな投資を求め、一部もしくはすべての株式の売却を検討していることを明らかにした。また時を同じくして、2023年までウィリアムズとスポンサー契約を結んでいたROKiTとROKドリンクの即時契約解除というニュースも流れ、この名門チームの前途に対する不安が高まった。
おカネの話をするのは野暮(やぼ)といわれるF1の世界で、具体的な経営上の損益がつまびらかになった理由は、ウィリアムズを含むWGPHが独フランクフルト証券取引所に上場しているから。決算をオープンにしなければならないという、F1チームにしてはユニークな状況に置かれているからである。
損失の原因が、F1チームの成績不振であることは言うまでもない。何しろ2018年、2019年と2年連続で10チーム中最下位。昨季は大雨のドイツGPでロバート・クビサが幸運にも拾った1点が唯一の得点というダントツのビリだった。
114勝という通算勝利数は、最古参フェラーリの238勝、マクラーレンの182勝に次ぐ歴代3位。コンストラクターズタイトル9回、ドライバーズタイトル7回獲得と、非の打ち所がないほどの強豪だったウィリアムズから、往年の輝きが失われて久しい。日本では「車いすの闘将」との呼び名で有名なフランク・ウィリアムズのチームも、いよいよ運が尽きたということなのか。
土俵際まで追い込まれたかにみえるウィリアムズ。だがこのチームが、何度も苦境に立たされては不死鳥のごとくよみがえってきた、不撓(ふとう)の軍団であることを忘れてはならない。モータースポーツに並々ならぬ情熱を傾けてきたフランク・ウィリアムズとその同志たちによる、半世紀にわたる山あり谷ありのF1人生をここに振り返りつつ、いま、この名門に何が起きているのかを考えてみたい。
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貧乏時代の苦労 チームを乗っ取られた経験
ウィリアムズの歴史は、創設者フランク・ウィリアムズの人生そのものといっていい。
1942年にイギリスはイングランド北東部サウス・シールズに生まれたフランクは、少年のころから自動車に興味を持ち、特に1950年代、ルマン24時間レースで連勝を飾っていたジャガーは彼の憧れの的だった。青年期には自らステアリングを握り、またメカニックもやりながらモータースポーツ活動に没頭。だがドライバーとしての自分の力量に早々に見切りをつけると、1966年に「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ」を設立し、レーシングチームのマネジメントに活路を見いだした。
F2やF3で経験を積むなかで、フランクの同居人でもあった新鋭のドライバー、ピアス・カレッジとの関係を深めていく。1969年、ブラバムのシャシーを購入したフランクは、カレッジとともにF1にエントリー。モナコGPとアメリカGPで2位に入る活躍をみせ、双方の才能の片りんをうかがわせた。
1970年、フランクはイタリアのコンストラクターであるデ・トマソを説き伏せてF1マシンをつくらせ、カレッジを乗せることにした。しかし、オランダGPでの大事故でカレッジが他界。将来を嘱望されたドライバーであり親友でもあったカレッジの死にフランクも相当なショックを受け、またこれをきっかけにデ・トマソとの関係も悪化。パートナーシップは実りなく1年で終わりを迎えた。
その後も、マーチのマシンを購入するなどしてF1活動を続けていたウィリアムズだったが、資金難にあえいで戦績も低迷。同じ時期にF1に打って出るや、ジャッキー・スチュワートを擁してたちまちタイトルを勝ち取った同郷のティレルとは対照的に、フランクは弱小チーム存続のために金策に走らざるを得なかった。
タバコブランドのマルボロや、イタリアのスポーツカーメーカー、イソの支援を取り付けるも成績は好転せず、こうしたスポンサーも相次いで離れていった。困ったフランクは、石油で財を成したウォルター・ウルフを共同出資者として受け入れる決断を下す。
1976年に旗揚げされた「ウルフ・ウィリアムズ・レーシング」は、しかし、もはやフランクのチームではなくなっていた。ウルフにチームを乗っ取られてしまったウィリアムズは、翌年、自ら興したチームを追い出されてしまった。
新生ウィリアムズ 常勝軍団の道を行く
行き場を失ったフランクは、それまで右腕としてチームを支えてくれたエンジニアのパトリック・ヘッドをともない、新たに「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」を設立。1977年シーズンに再出発を果たす。当座はマーチのシャシーで戦いつつ、彼らは翌年からのコンストラクター復帰に向けて、準備を進めていった。
同じ轍(てつ)を踏んではなるかと、フランクはスポンサー探しに奔走。中東との太いパイプをつくることに成功し、サウジアラビア航空(サウディア)という強力な後ろ盾を得て経営基盤を固めた。同時に注力したのがマシン開発体制の強化である。ヘッドを筆頭とする技術部門には、のちにベネトンやフェラーリにタイトルをもたらすロス・ブラウンも加入。さらにアラン・ジョーンズという気鋭のオーストラリア人ドライバーを起用し、ウィリアムズは戦闘態勢を整えていった。
1978年は、コスワースエンジンを搭載したヘッド作「FW06」でコンストラクターズランキング9位に終わるも、これは将来への助走であった。翌1979年は、母国イギリスでの悲願の初優勝を含む5勝をマーク、常に優勝争いに加わる活躍でランキング2位に躍進。そして1980年、ついにウィリアムズはコンストラクターズチャンピオンとなり、ジョーンズもドライバーズチャンピオンに輝いた。続く1981年にはコンストラクターズタイトル2連覇達成。1982年にはケケ・ロズベルグがドライバーズタイトルを獲得している。
1970年代の貧乏チームから一転、1980年代に入り頂点を極めたウィリアムズは、一方で普及が進むターボエンジン化の波にすっかり出遅れてしまっていた。そこで出会ったのがホンダである。1983年に「スピリット」という急ごしらえのチームで第2期F1活動に入っていたホンダは、この年の最終戦でウィリアムズにV6ターボ供給を開始。ここからウィリアムズ・ホンダの快進撃がスタートする。1984年のアメリカGPでロズベルグが初優勝を飾り、以降1987年までに通算23勝、ポールポジション19回を記録。1986年からコンストラクターズタイトル2連覇、1987年にはナイジェル・マンセルとのチームメイトバトルを制したネルソン・ピケがドライバーズタイトルを獲得するなど、ウィリアムズに再び絶頂期が訪れた。
だが、好事魔多し。この間に非情な不幸がフランクの身に起きてしまう。1986年3月、フランスはポールリカール・サーキットでのテストを終えたウィリアムズ一行が、レンタカーで空港へと向かっていた際、フランクが運転するクルマが事故を起こしてしまったのだ。駆けつけたピケやマンセルらに見守られるなか、医師たちにより懸命の措置が取られるも、フランクの下半身は麻痺(まひ)したまま元に戻ることはなかった。人生を一変させるような大事故だったが、不屈のフランクはF1の現場に復帰。車いすの上から再び陣頭指揮を執る彼の姿勢は、まさに「闘将」という名にふさわしいものだった。
しかし、災難はこれにとどまらなかった。当時最強のエンジンサプライヤーだったホンダから、1987年を最後にパートナーシップを解消したいという、重たい相談が持ちかけられたのだ。
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どん底から一転 ルノーとともに華麗なる復活
マクラーレン・ホンダが16戦15勝という金字塔を打ち立てた1988年シーズンは、ウィリアムズにとって屈辱に満ちた一年だった。ホンダに別れを告げられ、ノンターボの非力なジャッドエンジンで戦わざるを得ず、1978年シーズン以来となる未勝利で終了。しかし、転んでもただでは起きないのがウィリアムズチームでありフランクだった。
ターボが廃止され自然吸気エンジンに統一された1989年、ウィリアムズはルノーと手を組んだ。翌年には天才的デザイナー、エイドリアン・ニューウェイが加わり、1991年にはマンセルがフェラーリからカムバック。これでウィリアムズ・ルノー黄金期の下準備が整った。
1991年のF1は、「マクラーレン・ホンダのアイルトン・セナ」対「ウィリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセル」という構図を軸に、シーズンが展開。開幕4連勝でチャンピオンシップをリードするセナと、中盤に盛り返して猛追するマンセルによるタイトル決定戦の舞台は、ホンダのお膝元である日本GPとなった。結果は、鈴鹿に背水の陣で臨んだマンセルだったものの、1-2でスタートして連係プレーを繰り広げるマクラーレン勢に翻弄(ほんろう)され、あえなく敗退。とはいえその奮闘ぶりは、来(きた)るシーズンのウィリアムズの勢いを予感させるものだった。
1992年シーズンは、アクティブサスペンション、トラクションコントロールといったハイテクメカ満載の「FW14B」と、“レッドファイブ”を付けたマンセルがチャンピオンシップを席巻。マンセルは開幕5連勝を含む16戦9勝、ポール14回という圧倒的な強さで“無冠の帝王”の名を返上し、念願の初王座に就いた。そして、かつての相棒の成功を見届けるように、ホンダはこの年限りでF1第2期の活動に幕を下ろした。
翌1993年のウィリアムズは、マンセルの後釜に収まったアラン・プロストとともに2年連続ダブルタイトルを達成。1994年には引退したプロストに代わりセナが加わるも、この年からはハイテクデバイスが禁止され、前年まで圧倒的な速さを誇っていたウィリアムズのマシンからは安定感が失われてしまった。セナは序盤2戦ともにポールポジションからリタイア。そして迎えたサンマリノGPにおいて、希代の天才ドライバーは大クラッシュの果てに命を落としてしまった。この年、セナの死という衝撃的な出来事を乗り越え、僚友デーモン・ヒルが最後までタイトル争いを繰り広げるも、わずか1点差でベネトンのミハエル・シューマッハーに惜敗。一方、チームは3年連続でコンストラクターズタイトルを獲った。
その後、デーモン・ヒル(1996年)、ジャック・ビルヌーブ(1997年)と2人のチャンピオンを輩出したウィリアムズは、1997年でルノーとの蜜月にピリオドを打つ。ウィリアムズ・ルノーの9年間の戦績は、63勝、ポールポジション79回、奪ったタイトルは合計9(コンストラクターズ5、ドライバーズ4)という堂々たるもの。まさにウィリアムズが一時代を築いた、そんな1990年代だった。
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BMWとのジョイント そして低迷期へ
1990年代最後の2年をルノーの“型落ち”エンジンで戦ったウィリアムズに、新たなパートナーが現れる。ドイツの巨人、BMWだ。
2000年からエントリーしたBMWウィリアムズは、強力なエンジンと、ラルフ・シューマッハーやファン・パブロ・モントーヤらの活躍もあり、ポディウムの常連となる。2000年、2001年とコンストラクターズランキング3位、2002年、2003年には同2位と着実にステップアップ。次はいよいよ王座奪還かと期待が高まったものの、2004年は牙のようなフロントデザインが特徴の「FW26」でつまずき、ランキング4位に転落してしまう。このころのウィリアムズは、長く技術部門を率いてきたヘッドから若手エンジニアのサム・マイケルにトップの座が移るなど、チームの若返りを図っている時期でもあった。
その後は調子を取り戻せず、5年ぶりに未勝利に終わった2005年を最後に、BMWとの提携を解消。成績悪化にともない関係が悪化したのに加え、BMWが社内外に巡らした政治的な思惑に、ウィリアムズの嫌気が差したというのも原因だったようだ。
BMWと別れてからは、コスワース(2006年、2010年、2011年)、トヨタ(2007~2009年)、ルノー(2012年、2013年)と、エンジンサプライヤーをころころと変え、またリザルトも上向かないシーズンが続いた。
その後、2014年にメルセデスと提携し、パワーユニット供給を受けるようになってからは好機をつかんだかにみえた。実際、2014年と2015年にはメルセデス、レッドブル、フェラーリという3強チームの一角を崩し、シーズンをランキング3位で終える。しかし翌年からは再び低迷。2016年、2017年はランキング5位、2018年からは最下位が定位置となり、そこから抜け出せなくなってしまった。
比較的好調だった2014年からの2シーズンは、現行ターボハイブリッド規定の最初の2年と重なる。この間のウィリアムズの強みは、メルセデスの強心臓を十二分に生かしたストレートスピードにあった。彼らは時に本家メルセデスをも上回る速さをみせ、2014年のオーストリアGP予選では、フェリッペ・マッサとバルテリ・ボッタスがフロントローを独占したほどだ。
だが、パワー頼みのマシンには限度があった。低ドラッグ化によりダウンフォースは不足し、中低速コーナーが苦しく、タイヤにも負担がかかってなかなか上位を狙えなくなった。ヘッドが去ってからというもの、技術責任者はマイク・コフラン、パッド・シモンズ、パディ・ロウと入れ替わりが続いた。そうこうしているうちに、猛烈に追い上げてくるライバルに対してアドバンテージを示せなくなり、気がつけば最下位が定位置になってしまった。
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名門復活という使命のために
ウィリアムズと同じように、近年低迷からなかなか抜け出せないでいるのがマクラーレンである。歴代勝利数2位と3位、まさに名門中の名門であるこの2チームは、2020年のコロナ禍の影響もあり、現在積極的な資本増強に乗り出している。
この2つの“元”強豪チームには、他にも共通点がある。いずれも自動車メーカーとタッグを組んだワークスチームではなく、また「フェラーリのアルファ・ロメオ」あるいは「レッドブルのアルファタウリ(旧トロロッソ)」といった、トップチームから何らかの技術供与を得られる“Bチーム”でもない、独立系のチームであるということだ。
こうしたチームは、パワーユニット代を支払いながら、限られた経営資源の中で自前でマシン開発を行わなければならない。さらに他の中団チームとの熾烈(しれつ)な戦いを制し、“3強”との差も縮めなければならない。わずかでも失敗し、1点でも取りこぼし、ひとつでもコンストラクターズランキングが落ちると、F1から選手権順位に応じて振り分けられる分配金が減る。またレースで上位に顔を出さなくなるとスポンサーも手を引きがちになり、ますます懐具合が悪くなる。
こうした負のスパイラルを脱するために、ウィリアムズやマクラーレンは、いま資金の確保に全力を注いでいる。彼らはたんなるチャレンジャーではない。コロナ禍を生き抜くだけでなく、その先の“名門復活”が絶対条件として求められるのだ。2021年からは、各チームの予算上限を1億4500万ドル(約156億円)とするルールも施行される。さまざまな手を打てる時間は長くない。
間もなく80歳となろうかというフランクに代わり、近年ウィリアムズを切り盛りしているのが娘のクレア・ウィリアムズだ。副代表という地位に就く彼女も、「ウィリアムズの将来の成功のため、今回の株式売却をとてもポジティブに捉えている」と前向きな発言を繰り返している。成功すなわち勝利こそが、ウィリアムズが目指している唯一のゴール。そのことを理解した支援者を探しているのだ。
過去の資金難も、盟友の死も、自らの身に起きた不幸な交通事故も、エンジンパートナーからの突然の別れ話も、どんな困難にも諦めることなく勇敢に立ち向かい、華麗なる復活を遂げてきたフランク・ウィリアムズとその同志たち。彼らの勝利への情熱がF1の歴史を彩り、かたちづくってきたことに思いを巡らせれば、その復活を願わずにはいられない。
ワークスとBチームだけのF1など味気ない。ウィリアムズのように、気骨ある独立独歩のチームなしでは、F1はつまらなくなる。不撓のインディペンデントチームを、われわれモータースポーツファンは応援しなければならない。
(文=柄谷悠人/写真=BMW、Newspress、Williams Racing、ダイムラー、モビリティランド、ルノー、二玄社/編集=堀田剛資)
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