4ドアから5ドアへの変身例も! マイナーチェンジでガラリ一変したクルマ
2020.11.02 デイリーコラム丸目・涙目・鷹目
先日マイナーチェンジした「三菱エクリプス クロス」。マイナーチェンジとはいうものの、全長を延ばしてリアスタイルを改めるという大がかりな変更、というから相当ダイナミックに変身したのかと思ったが、たいしたことはなかった(個人の感想です)。かつて「ミラージュ ディンゴ」や「デリカD:5」で大胆な仕事を見せてくれた三菱の作だけに、こちらの期待が大きすぎたのかもしれない。それはさておき、マイナーチェンジでの大がかりな変貌(変な言い回しだが)は、何も三菱の専売特許というわけではない。
マイナーチェンジで最も目につきやすく、話題になるのは顔つきの変化だろう。この整形手術でよく語られるのは、3代目「ホンダ・インテグラ」。1993年にデビューした当初は4つの丸形プロジェクターランプを独立して埋め込んでいた。個性的ではあったが、「ヤツメウナギみたいだ」と言われるなどいまいち評判がよろしくなく、1995年のマイナーチェンジで2代目インテグラのような横長のライトを持つ常識的なデザインに変更されてしまった。
もう1台はモデルライフ中に2度のフェイスリフトを受けた2代目「スバル・インプレッサ」。2000年のデビュー当初の通称「丸目」が、2002年には「涙目」となり、さらに2005年には「鷹目」に変わった。最後の鷹目は、ライトだけでなくグリルもスバルのルーツである航空機をモチーフとした“スプレッドウイングスグリル”に変更されている。
「R2」から始まったこのスプレッドウイングスグリルは、スバルのアイデンティティーを示す文字通り「スバルの顔」として各車に導入されるはずだったが、大見えを切った割には驚くほど短命に終わった。このグリルのせいもあって、個人的には2代目インプレッサは落ち着きのなかったクルマという印象が強いのである。
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さらばイタリアンデザイン
いい悪い、好き嫌いはともかくとして、オリジナルの持ち味を消し去ってしまうマイナーチェンジもある。その例として挙げられるのが、1965年に出た2代目「日産セドリック」(130)。1960年のトリノショーに出展されたミケロッティデザインの「プリンス・スカイラインスポーツ」を皮切りに、日本ではイタリアンデザインがブームとなり、多くの国産メーカーがイタリアのカロッツェリアの門をたたいた。日産は最大手だったピニンファリーナと契約、当時は公にされていなかったが、2代目「ブルーバード」(410)と2代目セドリック(130)のスタイリングを委ねた。
そうして生まれた2台は、日本の法規制による縦横比の妥協などはあったものの、ピニンファリーナらしい優美なデザインだった。だが、日本人好みとは言い難かった。とりわけテール後端に向かってなだらかな弧を描くボディーサイドのラインが「尻下がり」と言われて不興を買った。その傾向が顕著だったブルーバードは、マイナーチェンジの度にリアフェンダーを直線化してヒップアップしていったのである。
セドリックのヒップラインはあまり目立たなかったので、その修正はブルーバードほど極端ではなかったが、1968年のマイナーチェンジで、顔つきをはじめAピラーから前方のデザインをガラリと変更。内装の刷新を含め、ヨーロピアンからアメリカンというか無国籍風というか、まるっきり別のクルマのような印象となってしまった。プリンスとの合併などから、モデルライフを延命させなければならないといった諸事情による苦肉の策だったのかもしれないが、造形的にはピニンファリーナデザインの破壊と言っても過言ではなかった。
イタリアンデザインが失われたもうひとつの例は「いすゞ・フローリアン」。「117クーペ」のベースとなったことで知られるサルーンで、オリジナルは117クーペと同様にカロッツェリア・ギアの作品だった。ただしデザイナーはジウジアーロではなく前任者のフィリッポ・サピーノだが、異形ヘッドライトを持つ生産型の顔つきはジウジアーロが手直ししたものという。
1967年に発売され、1970年のマイナーチェンジで丸目4灯ヘッドライトを持つマスクに変更。この時点で本来の顔つきは失われていたのだが、デビューから10年を経た1977年のフェイスリフトで決定的となった。当時提携していたゼネラルモータース(GM)のキャデラックから借りてきたような、角形4灯ヘッドライトと独立したグリルを持つ押し出しの強いマスクで、無理やりアップデートした旧共産圏のモデルのような雰囲気になってしまったのだった。
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形が変われば能書きも変わる
イタリアンデザインの本家であるイタリアで、オリジナルデザインを放棄したモデルといえば「フィアット・ムルティプラ」。欧州では全長4mを超えるとカーフェリーの料金が上がるため、全長を3995mmに抑えるいっぽうで全幅を1870mmとし、独立した3人掛けシートを2列配置して6人乗りとしたピープルムーバーで、1998年にデビューした。
話題となったのは、ヘッドライトのロービームを一般的なマスクの先端に、ハイビームをAピラーの根元に配置した、なんとも奇抜な姿だった。そのデザインは「世界で最も醜いクルマ」と呼ばれるなど論議の的となったが、結果的には2004年のマイナーチェンジで常識的な顔つきに改められた。カーデザイン先進国生まれでも受け入れられなかったわけだが、オリジナルデザインにゴーサインを出したフィアット上層部はどう思ったことだろうか。
顔つきではなくお尻、つまりマイナーチェンジでリアスタイルを大きく変えたモデルとして記憶に残っているのは、2代目「ホンダ・トゥデイ」。1993年にまず2ドア、約4カ月遅れて「アソシエ」のサブネームを持つ4ドアが登場するが、どちらも軽では常識となっていたテールゲートではなく、独立したトランクを持っていた。
その理由について、ホンダは「トランクタイプのセミノッチバックスタイルを採用し、個性的な外観とともに居住性やボディー剛性の向上も実現」とうたっていた。だが、見た目はかわいらしくでも、小さなトランクに大きな荷物は積めない。テールゲート付きのほうが利便性が高いのは明らかで、1996年のマイナーチェンジで「親しみやすく実用性の高いデザイン」と称する3/5ドアハッチバックに変えられた。
初代「シビック」で日本にハッチバックを広めたパイオニアであるにもかかわらず、あっさりとテールゲートを捨てたところ、それが不評となるとさっさと戻すところが、いい意味でも悪い意味でも変わり身が早かった、当時のホンダらしい。
ドライブトレインを一変
外見ではなく、中身を大幅に変えたマイナーチェンジもある。1978年にデビューした初代「日産パルサー」(N10)。そのルーツとなるのは、1970年に日産初のFF車として誕生した初代「チェリー」(E10)である。1959年に誕生し、小型車の世界に革命を起こした「Mini」に始まる水冷直4エンジン横置きのFFを日本で初採用(空冷エンジンならチェリー以前に「ホンダ1300」が存在)したモデルでもあった。
初代パルサーは「チェリーF-II」を名乗った2代目チェリー(F10)の後継モデルで、日産としては初めて2ボックススタイルを採用。その設計コンセプトが欧州製小型車に通じることから、当初のキャッチコピーは「パルサー・ヨーロッパ」だった。
初代パルサーは1980年にフェイスリフトを受け、ヘッドライトを丸目から角目に変更。翌1981年に再度マイナーチェンジされ、見た目はほとんど変わらなかったが、中身が大きく変わった。エンジンが初代チェリー以来の、1.2/1.4リッター直4 OHVターンフローのA12/14型から、新開発された1.3/1.5リッター直4 SOHCクロスフローのE13/15型に変わったのである。
マイナーチェンジでのエンジン換装は、さほど珍しいことではない。だが初代パルサーの場合はエンジンのみではなく、ドライブトレインまですべて変更されたのだった。初代チェリー以来、日産の横置きFFは、エンジンの下にギアボックスを配置していた。Miniを設計したアレック・イシゴニスにちなんで、イシゴニス式と呼ばれる方式である。ところがこのマイナーチェンジで、フィアットのダンテ・ジアコーザが考案したことからジアコーザ式と呼ばれる、エンジンとトランスミッションをFR車のように直線上に並べる方式に転換したのだ。
この時点で、イシゴニス式に対するジアコーザ式の優位性は確定していたので、その転換自体に疑問はないが、問題はその時期。マイナーチェンジは1981年3月だが、それから13カ月後の1982年4月にパルサーは2代目(N12)にフルモデルチェンジするのだ。なぜそれまで待たなかったのかというと、もちろん理由がある。
マイナーチェンジから7カ月後の1981年10月に「サニー」がフルモデルチェンジを控えており、初代以来のFRからパルサーとパワートレインを共有するFFに転換することになっていた。パルサーと同級だが、より生産・販売台数が多い基幹車種であるサニーに失敗は許されないということで、パルサー(および1980年6月に登場した双子車の「ラングレー」)には、先行モデルの役割が課せられていたのだった。
(文=沼田 亨/写真=本田技研工業、スバル、日産自動車、いすゞ自動車、フィアット・クライスラー・オートモービルズ)
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沼田 亨
1958年、東京生まれ。大学卒業後勤め人になるも10年ほどで辞め、食いっぱぐれていたときに知人の紹介で自動車専門誌に寄稿するようになり、以後ライターを名乗って業界の片隅に寄生。ただし新車関係の仕事はほとんどなく、もっぱら旧車イベントのリポートなどを担当。