楽しむことはもはやエゴ!? 12気筒エンジン車はこれからの時代を生き残れるか?
2021.04.02 デイリーコラム音と振動こそがキモ
五感で覚えた快感を人はそう簡単に捨てたり忘れたりすることはできない。耳をつんざく爆音、オイルの焼ける匂い、溶けるように流れ去った景色、それらの混じり合った空気をたっぷりと吸い込んで、同じ空間にわが身を委ねたひととき。
なかでもエンジンそのものが発するサウンドとバイブレーションに関して言えば、より複雑な構成の機械が全力を振り絞るそのプロセスにおいて人は絶頂を感じるものである。音と振動がシンクロし、ドライバーとマシンが目に見えない収束点で交わりそうになる、その刹那(せつな)がたまらない。この瞬間を何度でも味わってみたいからこそ、人は右足に力をこめるのだ。そう、スピードのスリルにそれは間違いなく勝っている。絶対的な高速にはすぐに慣れるし、超絶の加速も一度で満足するものだが、音と振動のコラボレーションには飽きるということがない。
ガス! ガス! ガス!
プッシュ! プッシュ! プッシュ!
だからとにかく燃料を燃やしたいのだった。
さしずめ12気筒エンジンはその筆頭だといっていいだろう。人類の生んだ最も官能的な機械。クルマ好きであれば一度は12気筒に乗っておきたいと思うはず。12という数字のもつ魔力(もしくは親しみ)もさることながら、やはりそのフィーリングが至上のひとつであるということを直接的もしくは間接的にでも人は知っているからに違いない。
その一方で、アクセルペダルをもっと踏め! などという言葉を待つまでもなく、音と振動が素晴らしいと言った時点でその思考がエコではないこともまた事実だ。何しろ音と振動そのものがエネルギーの消費にほかならないからだ。それらを楽しむことがエゴであるという時代にわれわれは生きている。素晴らしいサウンドとバイブレーションを楽しみたいなどとは、少なくとも公道上では、今や言いづらい。
サラブレッドの良馬と同じ
そう考えると、先だって発表された「パガーニ・ウアイラR」こそ、12気筒エンジンの未来に対する模範解答のひとつではなかったか。
レースレギュレーションに縛られることなく究極のパフォーマンスを追求して設計された車体に、これまたさまざまな環境規制など気にすることなく白紙から新設計された自然吸気の12気筒エンジンを積んだ究極のマシン。もちろん公道を走ることはかなわない。けれども今やたとえナンバー付きの車両であったとしても、公道においてはそのパフォーマンスの一端を解放することすらもはや許されない時代になった。ならば必定、この手の一瞬にして非合法速度域に達する高性能車や、さまざまな排ガスを吐きまくる旧車は、耐用年数が長いとか走行距離が短いなどという屁理屈(へりくつ)はさておき、クローズドの場所や特別に許された道を目指すほかなくなる。往来を馬が自由に行き来する時代は終わろうとしているのだった。
では、12気筒エンジンは残るか、否か? 残る。筆者はそう断じる。冒頭に述べたように、あの快感を人は忘れることなどできないし、伝えていけば少なからず体験したいという人が現れる。真の官能マシンを味わうためならば、どれほど高額になっても構わないという人も出てこよう。ならばその望みに応えるのが超ハイエンドブランドの役割であり宿命だ。
たとえそれが馬場でしか走ることのできない、ひょっとすると騎乗にも一定の条件が必要になるサラブレッドだったとしても、大枚をはたいて乗る権利を行使する人がいる限り、12気筒エンジンは生き続ける。より芸術性を高めるようなベクトルで。
ちなみに、この2020年代においては12気筒エンジン+ハイブリッドシステムがフェラーリやランボルギーニといったハイエンドブランドのフラッグシップパワートレインとして生き残ることは間違いない。公道で感じる12気筒もまた、もうしばらくは体験可能である。
生き残るが、その条件はこの先、厳しくなる一方であることは間違いない。そう考えると、今のうちにできるだけ楽しんでおいてください、というほかない。
(文=西川 淳/写真=アウトモビリ・ランボルギーニ、ロールス・ロイス・モーター・カーズ、パガーニ・アウトモビリ、小林俊樹、webCG/編集=関 顕也)

西川 淳
永遠のスーパーカー少年を自負する、京都在住の自動車ライター。精密機械工学部出身で、産業から経済、歴史、文化、工学まで俯瞰(ふかん)して自動車を眺めることを理想とする。得意なジャンルは、高額車やスポーツカー、輸入車、クラシックカーといった趣味の領域。