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スズキを世界に羽ばたかせた「中小企業のおやじ」 鈴木 修氏の逝去に思う

2025.01.08 デイリーコラム 沼田 亨
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浜松の弱小メーカーから“世界のSUZUKI”に

暮れも押し迫った昨2024年12月27日、スズキの鈴木 修相談役が同月25日に亡くなったというニュースが伝えられた。享年94。それを耳にして、「巨星墜(お)つ」という表現はこういうときに使うんだろうなあ、と思った。不謹慎に思われるかもしれないが、日本の自動車人で逝去がこれほどメディアに取り上げられたのは、ホンダの創業者である本田宗一郎(1991年没)以来ではないだろうか。それはとりもなおさず、鈴木 修相談役の名前と存在が世間に浸透していた、すなわち「顔の見える」人物であったということだろう。

その人となりや残した業績については、すでに多くのメディアで伝えられている。また自動車人、財界人としてだけでなく、地方自治や政治にもにらみをきかす、いわゆる“フィクサー”的な顔も持っていた、などともいわれている。その方面に関しては筆者の知るところではないが、そういう話が出るのもまた、鈴木 修相談役の存在の大きさゆえであろう。

「ジムニー」や「アルト」「ワゴンR」といったヒット商品を世に送り出し、国内で軽トップメーカーの座を固めるいっぽうで海外に目を向け、いち早くハンガリーやインドに進出して成功に導いた。世界の巨人であるGM(ゼネラルモータース)やフォルクスワーゲンと提携したものの、相手の思惑とは裏腹に飲み込まれることなく自主独立を守った。そうして浜松の弱小メーカーにすぎなかったスズキを“世界のSUZUKI”に育て上げた後も、自身を「中小企業のおやじ」と称していたカリスマ経営者である鈴木 修相談役。だが、その経歴を見ると、世の自動車メーカーの経営者とはだいぶ異なっていたことがわかる。

ありし日の鈴木 修相談役。さかのぼること約16年の2009年5月、スズキ歴史館で実施されたアルト誕生30年と世界累計販売台数1000万台達成を記念したセレモニーにて。
ありし日の鈴木 修相談役。さかのぼること約16年の2009年5月、スズキ歴史館で実施されたアルト誕生30年と世界累計販売台数1000万台達成を記念したセレモニーにて。拡大
鈴木 修相談役が社長に就任して間もなく放った、自身にとって最大のヒット作といえる初代「アルト」(1979年)。当初はモノグレードで、左側ドアの鍵穴まで省略するなどコストダウンを徹底。加えて(当時)物品税のかからない商用車登録とすることで基本構造を共有する乗用車版の「フロンテ」の最廉価グレードより10万円近く安い47万円という低価格を実現。しかも自動車業界初の全国統一価格としたことで、テレビCMなどでの価格訴求を可能にした。
鈴木 修相談役が社長に就任して間もなく放った、自身にとって最大のヒット作といえる初代「アルト」(1979年)。当初はモノグレードで、左側ドアの鍵穴まで省略するなどコストダウンを徹底。加えて(当時)物品税のかからない商用車登録とすることで基本構造を共有する乗用車版の「フロンテ」の最廉価グレードより10万円近く安い47万円という低価格を実現。しかも自動車業界初の全国統一価格としたことで、テレビCMなどでの価格訴求を可能にした。拡大
2022年6月、ハンガリーのノヴァーク・カタリン大統領(当時)から、同国で民間人に授与される最高の勲章である大十字功労勲章を受章した鈴木 修相談役。1991年にマジャールスズキ社を設立、自動車産業を通じてハンガリー経済の発展に貢献したことをたたえられたものである。
2022年6月、ハンガリーのノヴァーク・カタリン大統領(当時)から、同国で民間人に授与される最高の勲章である大十字功労勲章を受章した鈴木 修相談役。1991年にマジャールスズキ社を設立、自動車産業を通じてハンガリー経済の発展に貢献したことをたたえられたものである。拡大
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40年以上にわたり重責を担い続けたタフネス

伝えられているように、鈴木 修相談役は1958年、28歳のときにスズキに入社した。新卒でもなければ、自動車業界の経験者でもなく、銀行員だったところを2代目社長の鈴木俊三の娘婿として鈴木家に迎えられ、入社したのである。

彼がクルマ好きだったとか、クルマに興味があったわけではなかったであろうことも、自伝『俺は、中小企業のおやじ』(日本経済新聞社刊)に記されたエピソードからうかがえる。初代ジムニーに関するくだりに、「恥を忍んで打ち明けますと、当時の私には2輪駆動と4輪駆動との区別がつきませんでした。『クルマならタイヤが4つあるのだから、4輪駆動が当たり前だろう。2輪駆動というのはオートバイのことに違いない』と思っていました」とあるのだ。

これを信じるならば、初代ジムニーのデビューは1970年だから、入社後10年前後がたって常務取締役という地位にありながら、クルマに関する知識は失礼ながら素人並みかそれ以下だったことになる。それでいながら「これはヒットするに違いない」と、ジムニーの原形となる4輪駆動車を開発した小規模な軽メーカーだったホープ自動車から製造権を買い受けて成功させてしまったのだから、驚くほかない。後年、自身が呼んだところの“勘ピューター”が発動した例というわけだが、少なくとも自動車業界では、こんな経営者はほかには見当たらないといっていいだろう。

異例といえば、鈴木 修相談役ほど長期にわたって会社の顔であり続けた人間も珍しいだろう。1978年、48歳で社長に就任して以来22年間にわたって指揮を執った。2000年に70歳で会長となったものの、後継者問題が相次いだため2008年に会長との兼務ではあるが8年ぶりに社長に復帰。2015年に長男の鈴木俊宏に社長の座を禅譲したものの会長職は続け、2021年に相談役に退くまで延べ40年以上にわたって実質的なトップの座にあったのだから。

当然ながら、その体制をワンマンと批判する声もあった。だが40年以上もの長きにわたって重責を担い、心身ともに疲弊するに違いない激務を続けることなど、まねしようにもできるものではない。そのタフネスぶりは想像を絶するものがある。

鈴木 修相談役が入社した翌年の1959年にデビューした「スズライトTL」。同年デビューの初代「ミニ」に似た2ボックススタイルの商用バン。初代「アルト」にさかのぼること20年、そのルーツともいえるモデル。
鈴木 修相談役が入社した翌年の1959年にデビューした「スズライトTL」。同年デビューの初代「ミニ」に似た2ボックススタイルの商用バン。初代「アルト」にさかのぼること20年、そのルーツともいえるモデル。拡大
1970年に発売された初代「ジムニー」(LJ10)。空冷2ストローク2気筒359ccエンジンと副変速付きの4段MTを組み合わせた本格的なオフロード4WD。小柄で軽量な車体を武器に上級車をもしのぐほどの悪路踏破性を発揮した。
1970年に発売された初代「ジムニー」(LJ10)。空冷2ストローク2気筒359ccエンジンと副変速付きの4段MTを組み合わせた本格的なオフロード4WD。小柄で軽量な車体を武器に上級車をもしのぐほどの悪路踏破性を発揮した。拡大
『俺は、中小企業のおやじ』(日本経済新聞出版社 2009年)。“オサムイズム”が詰め込まれた鈴木 修相談役の一代記。いわゆるビジネス書にカテゴライズされるが、内容は痛快でエンターテインメント性も抜群。
『俺は、中小企業のおやじ』(日本経済新聞出版社 2009年)。“オサムイズム”が詰め込まれた鈴木 修相談役の一代記。いわゆるビジネス書にカテゴライズされるが、内容は痛快でエンターテインメント性も抜群。拡大

ひとつの時代が幕を下ろす

2015年にカリスマ経営者だった鈴木 修相談役(当時社長兼会長)からバトンを託された鈴木俊宏現社長は、それまでのトップダウン体制から“チーム俊宏”ともいうべき集団指導体制への移行を明言。それから10年目を迎えるが、目下スズキの業績は絶好調だ。2025年3月期通期では純利益が前期比10.4%増で、過去最高を更新する3500億円を見込んでいる。為替の円安効果が大きいとはいえ、このご時世に日本国内での増販と収益力向上を果たしていることが好調の理由とされている。

現在、日本市場ではスズキは販売台数でトヨタに次ぐ2位の座を確保している。「ベストセラーの座に軽が君臨する時代だから驚くことじゃないが、軽主体では売れてももうからないのでは?」と思うかもしれない。だが2024年上半期のスズキの営業利益率はトヨタの10.6%を上回る11.7%で、国内メーカートップの高収益体質を誇っているのだ。

こうした数字から判断する限り、修体制から俊宏体制への移行はうまくいったようである。2021年に会長職を退いて相談役に就くときの記者会見で、「生きがいは仕事。人間、仕事を放棄したら死んでしまう。みなさんも仕事を続けてください」と語っていた鈴木 修相談役も、こうした現状を見てようやくゆっくり休めると思ったのではないだろうか。勝手な想像ではあるが。

とはいうものの、100年に一度の変革期といわれる自動車産業のなかで、スズキとて先行きは不透明であることは否めないだろう。かつてスズキと提携したものの、決裂した間柄にあるドイツの巨人フォルクスワーゲンでさえ、創業以来初となるのドイツ国内工場の閉鎖こそ免れたものの、減産とレイオフを余儀なくされている昨今なのだから。

スズキの社内では、すでに修体制から俊宏体制への移行は完遂しているのかもしれないが、世間ではどうしても鈴木 修相談役の会社というイメージが強かった。だが彼の逝去によって、好むと好まざるとにかかわらず、スズキはいわば“鈴木 修商店”から名実ともに“世界のSUZUKI”への転換を迎えることになるだろう。鈴木 修相談役が遺(のこ)した“オサムイズム”は偉大であり、今後も受け継がれるだろうが、ひとつの時代が終わったのである。

(文=沼田 亨/写真=沼田 亨、スズキ/編集=堀田剛資)

鈴木俊宏社長。1983年にトヨタグループの日本電装(現デンソー)に入社して技術畑を歩んだ後、1994年にスズキに入社。2015年6月に社長就任。
鈴木俊宏社長。1983年にトヨタグループの日本電装(現デンソー)に入社して技術畑を歩んだ後、1994年にスズキに入社。2015年6月に社長就任。拡大
2021年5月、同年3月期決算発表における鈴木 修相談役。この約1カ月後に会長職を退任して相談役となった。
2021年5月、同年3月期決算発表における鈴木 修相談役。この約1カ月後に会長職を退任して相談役となった。拡大
2024年10月、「フロンクス」の発表会における鈴木俊宏社長。フロンクスは予約受注が9000台を突破し、2023年12月発売の4代目「スイフト」は2025年次RJCカー オブ ザ イヤーを受賞するなど、登録車の分野でもスズキは好調である。
2024年10月、「フロンクス」の発表会における鈴木俊宏社長。フロンクスは予約受注が9000台を突破し、2023年12月発売の4代目「スイフト」は2025年次RJCカー オブ ザ イヤーを受賞するなど、登録車の分野でもスズキは好調である。拡大
沼田 亨

沼田 亨

1958年、東京生まれ。大学卒業後勤め人になるも10年ほどで辞め、食いっぱぐれていたときに知人の紹介で自動車専門誌に寄稿するようになり、以後ライターを名乗って業界の片隅に寄生。ただし新車関係の仕事はほとんどなく、もっぱら旧車イベントのリポートなどを担当。

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